日中戦争以降、大量の兵力動員と同時に、産業の軍需工業化に対応するかたちで労働力動員が強力に進められた。労働力不足が叫ばれるようになると、政府は一九三八(昭和一三)年に新設された厚生省を中心に、人口増加奨励政策や保健医療政策に取りかかった。保健医療政策の中心は、三八年に成立した国民健康保険法である。この背景には農村の貧困と医療制度の遅れがあり、国民医療の推進の必要性、体力増強と結核対策があった。農村に重点が置かれたのは、農村が兵力・労働力の主な供給源だったためである。
一九四一年に厚生大臣に就任した小泉親彦は、「健民健兵」を医療保健政策の柱に据え、国民皆保険運動を進めた。翌四二年、政府は国民健康保険法を改正し、全国市町村に国保組合を設置する方針のもと組合員の強制加入を目指した。また、保険医・保険歯科医・保険薬剤師の強制指定、保健婦設置や栄養改善などを内容とする保健施設の拡充強化が決定された。国民皆保険運動によって四三年度末には国保組合数は約一万、被保険者数は三七〇〇万人を超え、全市町村の九五%が組合を有する状況となった。四三年には農村部への普及をほぼ達成し、四四年には都市部への普及が目標とされるに至った。この時期は「第一次国民皆保険時代」と呼ばれる。なお、四五年三月末の東京都における普及状況は、組合数八〇、被保険者数四五万五四八〇人であった。