小平村では一九四三(昭和一八)年、小平村国民健康保険組合が設置され、七月一日に事業を開始した。被保険者は組合員およびその世帯に属するもので、四四年一月末時点で組合員一一一一人(全世帯の五八・六%)、被保険者六二四八人(人口の四〇・一%)となっている。小平村の場合、保険給付の割合は入院・手術・その他特別の費用を要する診療については六割(自己負担四割)、その他の診療については七割(自己負担三割)とされた。給付期間は六か月、結核性疾患については一年とされたほか、助産費は一件につき一〇円の支給と定められている。診療は、日本医師会、日本歯科医師会、日本薬剤師会に所属する東京・埼玉・神奈川の一部の医師・歯科医師・薬剤師と契約して事業をおこなった。
国保組合の財政状況の具体的内容については定かではないが、収入費目は通常、保険料、一部負担金、補助金(国庫補助、都道府県・町村費補助金)から成り立っている。小平の場合、保険料賦課総額は、四三年二万一六四六円六八銭、四四年二万五八六九円六〇銭となっている。保険料は、村税の賦課額にもとづき一級(村税五〇銭未満納税者、月額二〇銭)から一五級(村税五〇円以上納税者、月額一〇円)に等級分けをおこなったうえで徴収された。階層別の負担額・割合はわからないが、四三年、村会議員が村長に対して以下の要望をおこなっていることから、階層間に国保事業に対する認識の相違があったことがうかがえる。それは、「国民健康保険組合の趣旨を普(あまね)く村民に徹底せしめ、未だ村内有力者階級に未加入者が多数あるやに聞き及べるも、之が絶無を期せられ全村強請〔ママ〕加入に迄で努力せられ度(た)きこと」(近現代編史料集① 九三七頁)というものであった。補助金については、小平村(町)は組合に対して四四年と四五年にそれぞれ二〇〇〇円を拠出している(近現代編史料集② 一八頁/四七頁)。
第一次国民皆保険時代には、量的発展につれて、質的に低下したといわれるように、全国的に普及率の徹底がはかられたことで、組合の粗製濫造がおこなわれた。戦時下における小平の国保事業の運用実態については不明な点が多いが、先の村議の要望にみられるように、村民の間に制度の趣旨が十分に浸透しないままに事業が開始されたことで多くの未加入者を生み出し、事業運営に支障をおよぼしていたと考えられる。これまでも指摘されてきたように、そもそも町村にとって未経験の国保組合の経営には、専門職員の指導と経験の蓄積が必要だったのであり、設立されたばかりの組合が不安定な状態に置かれたのは当然のことであった。
戦時下の重要施策として推進された国保制度は、確かに医療と福祉の拡充を目指す戦時社会政策にほかならなかったが、十分な成果をあげることができぬまま、戦局の悪化とともに多くの国保組合は機能不全に陥っていく。国保組合の急増する四三・四四年頃には、応召医師の増加によって、組合の本来の役割である医療給付の実施が困難になったことも大きかったといわれる。そうした傾向は、「医療空白の小平町」(『小平市医師会史』)と呼ばれるほど開業医の不足していた小平の場合も例外ではなかったはずであり、敗戦後の四七年、小平町国民健康保険組合は事業を停止、解散するに至った。