「農村青年」という言葉は明治半ばから使われはじめ、特に日露戦争後に青年会の設立が奨励されて以来、国家の基盤となる農村を支え、あるいは「農村の危機」を救う主体としての期待を込めて使用された。都会にあこがれる青年も多かったが、農村にとどまって「農村の改造」のために農民運動に参加するものもあらわれた(「戦間期における『農村青年』運動」)。こうした状況に対応して、政府は青年の「思想善導」を目的とした実業補習学校の整備や青年訓練所の新設、青年団の組織化を進めた(第三章第三節2参照)。
一九三五(昭和一〇)年、勤労青年を対象とした実業補習学校と、徴兵年齢前の勤労青年に軍事教練を施す青年訓練所とを合併して青年学校が誕生した。青年学校は尋常小学校卒のための普通科(二年)と、普通科修了か高等小学校卒を入学資格とする本科(男子五年、女子三年)、研究科・専修科が置かれた。科目は修身科、公民科、普通学科、職業科、教練科で、軍事教練が最も重視された。一九三九年には青年学校令改正でほかの学校に進学しない男子勤労青年に対し、青年学校への就学が義務化された。総力戦体制のもと、将来の兵力および生産力の担い手として「青年」に対する国家からの期待が一段と高まったのだった。
一般の青年学校は小学校の校舎に間借りで専任教員も十分でなかったが、小平青年学校は北多摩郡で唯一の特設青年学校に指定され、独立した校舎をもち、専任校長と六名の専任教員が置かれ、一町五反の耕地をもっており、他の青年学校のモデルとなることが期待されていた。なお小平家政女学校も併設された。「小野校長自ら連日汗と土にまみれて農民道場的実践教育に精進」とあるように農業教育に力を入れており、生徒は農繁期でも交代で登校して、学校農場での作業をおこなっていた(近現代編史料集③ No.二六九)。生徒一人に一区画(五畝)ずつ割当てて、「出征軍人慰問農園」と名付けて耕作から出荷までの全責任をもたせ、その収益金を慰問資金として貯蓄させるという活動が注目を集めた(近現代編史料集③ No.二七一)。一九四〇年には青梅霞青年学校での農業教育で実績をあげていた有賀三二を迎えている(のち校長)。
一方、三七年一〇月には斉藤陸軍少将の臨席、北多摩郡全青年学校長の立ち会いのもと、田無青年学校と合同で「模範査閲」がおこなわれるなど(近現代編史料集③ No.二七〇)、小平青年学校は軍事教練でも模範であった。一九四一年一一月の府下青年学校連合演習は府下二市三郡の全校が多摩川をはさんで東軍と西軍に別れ、実戦さながらの攻防戦を展開する大規模な演習だったが、小平青年学校生の一人は「日頃学校で実戦に経験の深い水村先生(中尉)から実戦的訓練を受けてゐましたからその日常訓練が今回大いに役立ちました。渡河も行軍も突撃も真に魂を打ち込んで最後まで真剣に奮闘しました」と語った(近現代編史料集③ No.二七七)。