図4-14 小平第二国民学校分校の1年生 1942年
小平第二小学校所蔵
一九三〇年代における立川を中心とする多摩地域の軍需工業化、そして一九四〇年代に入ってからの戦時開発にともなう小平地域の変化は、児童の進路にも影響を与えた。ここに小平村立第二尋常小学校・高等小学校の一九三九年卒業者、および小平町立第二国民小学校尋常科・同高等科の一九四四年卒業者の進路データ(小平第二国民学校『学校表並児童表』)があるので、それを分析してみよう(表4-9)。
表4-9 児童の進路の変化 | ||||||||
尋常小学校卒業者 | 男子 | 女子 | ||||||
1939 | 1944 | 1939 | 1944 | |||||
進学 高等小学校 | 27 | (87%) | 20 | (47%) | 19 | (63%) | 19 | (36%) |
中学校 | 3 | (10%) | 13 | (30%) | - | - | - | - |
高等女学校 | - | - | - | - | 5 | (17%) | 16 | (30%) |
実科高女 | - | - | - | - | 2 | (7%) | 0 | (0%) |
実業学校 | 0 | (0%) | 4 | (9%) | 1 | (3%) | 1 | (2%) |
青年学校 | 0 | (0%) | 6 | (14%) | 0 | (0%) | 17 | (32%) |
就職 就職者 | 0 | (0%) | 0 | (0%) | 0 | (0%) | 0 | (0%) |
家業従事者 | 1 | (0%) | (0%) | 3 | (10%) | 0 | (0%) | |
合計 | 31 | (100%) | 43 | (100%) | 30 | (100%) | 53 | (100%) |
高等小学校2年修了者 | 男子 | 女子 | ||||||
1939 | 1944 | 1939 | 1944 | |||||
進学 実業学校 | 2 | (4%) | 7 | (16%) | 0 | (0%) | 2 | (5%) |
青年学校 | 12 | (24%) | 19 | (44%) | 28 | (62%) | 15 | (34%) |
就職 就職者 | 28 | (57%) | 17 | (40%) | 6 | (13%) | 25 | (57%) |
家業従業者 | 6 | (12%) | 0 | (0%) | 9 | (20%) | 2 | (5%) |
家庭に在る者 | 1 | (2%) | 0 | (0%) | 2 | (4%) | 0 | (0%) |
合計 | 49 | (100%) | 43 | (100%) | 45 | (100%) | 44 | (100%) |
(出典)小平第二国民学校『学校表並児童表』より作成。 |
まず尋常小学校(国民学校初等科)卒業生についてみてみると、卒業後すぐに家業に就くものはほとんどおらず、この時期になるといずれかの学校に進学するのが普通となっていることがわかる。ただし進学先では、一九三九年に比べ、一九四四年は男女とも高等小学校の比率が大幅に減り、中学校や高等女学校に進学するものが増えている。こうした高学歴化は、農業以外の職業への就職を希望するものが男女ともに増えたことを示しており、戦時開発の影響があらわれている。
次に高等小学校(国民学校高等科)修了者についてみてみると、一九四四年では、男子の場合、進学も、就職もしない場合は義務制となった青年学校に四四%が入学している。また女子の就職者が大幅に増えているのが目につく。一九四四年の就職先の内訳がわかるが、男子は工業一五人、経理学校二人に対し、女子は工業七人、経理学校一八人となっている。高等小学校卒男子の三人に一人は工場に就職していること、経理学校の大量採用が女子の就職率を押し上げたことがわかる。高等小学校卒者の工場への就職者増加は戦時開発の影響であり、新卒者に対する労務動員政策の結果でもある。
さて、意欲をもって工場に就職したとしても、皆がすんなりと順応できたわけではない。工場の労働環境や労働条件は悪く、父兄は「農村の好況も手伝って多少収入は少くても健康をそこなはぬ処を志望させる」傾向にあったという。こうした工場の衛生状態への不安が父兄に広がることを憂慮して、警察からは「軍需工場の衛生施設を完備」することや、職業紹介所が労務動員計画に沿って「何んでも動員する弊」を排し、健康状態の悪いものを採用しないことが「国家的見地から見て損失を防止する道」であるとの声が上がっていた(近現代編史料集③ No.二一一)。
一方、「産業小戦士」とも呼ばれた青少年工の急増とともに、その「不良化」が取りざたされるようになった。親や学校の監督を離れたこと、未成年にしては多額の収入が得られたことなど、急激な環境・境遇の変化がもととなって生活規律を乱した挙げ句、不良行為や犯罪に手を染める青少年工が増えたとされ、生産効率の低下が懸念されたのだった。田無署では管内の町村長や少年保護司らを集めて意見交換をおこない、町内会部落会で勤労青年の精神修養のための常会を開くとか、町村と工場の共催で「みそぎ錬成」をおこなうなど、地域ぐるみで「勤労青年を善導」するための具体策を練った(近現代編史料集③ No.二一六)。