さらに政府は六月三〇日に「学童疎開促進要綱」で集団疎開の実施を決定した。病弱者を除く国民学校の三年生から六年生すべてを対象とし、東京からは三多摩・関東甲信越地方および静岡、福島、宮城、山形の各県を疎開先とし、都内三五区ごとにそのいずれかが割り当てられた。旅館や寺院などに宿泊し、授業は疎開先の国民学校か宿舎でおこなわれた。三多摩には赤坂区の五校と品川区の二〇校が割り当てられ、小平には赤坂区青山国民学校の四・五年生が疎開することになり、小川寺、海岸寺、泉蔵院、延命寺が疎開学寮となった。一九四四年八月からはじまった青山国民学校の疎開は、空襲の激化により、延命寺の四年女子を除き、西多摩郡五日市町に再疎開した(一九四五年一月)。一方、東京女子高等師範学校附属国民学校は官立であるため独自に疎開先を捜すこととなり、久米川にあった同校の郊外園という農園の園舎を改造して三・四年生の宿舎とし、五・六年生は小川の村野家、田中家、浅見家に分宿し、一・五kmほど歩いて郊外園まで通学した。園では雨が降らない限り授業や食事も含め一日中屋外で過ごした。なお同校も一九四五年六月に富山県福光町に再疎開した。
東京高等女子師範附属の六年生のある児童は日記に次のように書いた(『疎開の子ども六〇〇日の記録』)。
十月十五日 日 晴
今日は、田中さん〔宿舎を提供した田中家の家人――引用者注〕が出征なさるのでいつもより早く起きた。〔中略〕外はとても寒くて、とてもたまらなかった。先生が旗をわけて下さった。田中さんのにこにことなさった顔を見ながら元気よく、
「バンザイ。」
をとなえた。田中さんはあいかわらずにこにこしながら、
「いっしょうけんめいにやって下さい。」とおっしゃった。私は急に寒さもわすれてしまった。
「田中さんに負けずにいっしょうけんめいやろう。」
と思った。
今日は、田中さん〔宿舎を提供した田中家の家人――引用者注〕が出征なさるのでいつもより早く起きた。〔中略〕外はとても寒くて、とてもたまらなかった。先生が旗をわけて下さった。田中さんのにこにことなさった顔を見ながら元気よく、
「バンザイ。」
をとなえた。田中さんはあいかわらずにこにこしながら、
「いっしょうけんめいにやって下さい。」とおっしゃった。私は急に寒さもわすれてしまった。
「田中さんに負けずにいっしょうけんめいやろう。」
と思った。
疎開児童は、親元を離れた寂しさ、疎開生活の不自由さ、集団生活のなかの軋轢、耐えかねる空腹などで、大きなストレスを感じていたのだが、彼らは日記にそうしたことをなるべく書かないようにしており、むしろ苦労を感じればこそ「いっしょうけんめい」に、あるべき「少国民」たらんとしていたようにみえる(『戦争と戦後を生きる』)。
一方、小平の疎開児童は、先の「田中さん」のような地域の人びとから暖かく見守られていたのもたしかである。花小金井の疎開学園には近所の牧場から毎日牛乳の差し入れがあったし、青山国民学校の元児童は「小平第二小学校(国民学校)の児童が、登校時、カボチャ、サツマイモ、大根などを持って登校してくださり、親切にしていただきました。空腹の思いはいたしませんでした」とか、「町の方が食料などを手配して下さって、われわれに淋しい思いをさせないよう気遣って下さったことを覚えています」といった証言を残している(『疎開は勝つため国のため』)。
図4-15 疎開絵日記(部分)
お茶の水学童疎開の会『第二次世界大戦学童疎開記録集』1989年 国立国会図書館所蔵
図4-16 面会日の「面会人心得」
学童疎開記録保存グループ『疎開の子ども600日の記録』