戦場での兵士たちの戦いに対して、それを支える国民の日常は「銃後」と呼ばれたが、女性は地域における「銃後の守り」の中心的な戦力であることが求められた。女性団体は「銃後」活動を幅広く展開して、多数の女性を組織化していった。日露戦争前から軍事援護活動をしていた愛国婦人会(愛婦)は中上流婦人が中心で広がりに欠けていたのに対し、満州事変後に発足した大日本国防婦人会(国婦)は、兵士の送迎や留守家族慰問などの活動をおこなったが、白の割烹着姿で家の外に出て活動することに喜びをみいだした庶民層の女性に会員を広げ、一九四一(昭和一六)年には一千万人の会員数を誇るまでに急成長した(『国防婦人会』)。愛国婦人会、大日本国防婦人会、大日本連合婦人会(連婦)の三団体は一九四二年二月に統合して大日本婦人会となり、大政翼賛会の傘下に入った。大日本婦人会は「婦徳」の啓蒙活動や遺家族慰問といった軍事援護活動にとどまらず、町内会・部落会の婦人部と一体となって、防空訓練や貯蓄奨励など「銃後の守り」と「戦時生活」全般にわたる統制と動員に力を発揮した。
小平における婦人団体の活動は、一九三七年一一月に愛国婦人会小平分会が発会して、出征兵士遺家族の慰問活動をおこなっており(近現代編史料集③ No.三〇二)、一九四二年一二月には大日本婦人会小平支部が発会した(近現代編史料集③ No.三〇八)。