女性労働力の動員

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総力戦のもとでの女性への役割期待は、「銃後の守り」や「戦時生活」の面だけではない。女性は労働力としても戦力とされ、兵力動員のため不足する男性労働力を埋め合わせることが期待されたのだった。政府の労務動員政策においては、「家」観念との調和のために、女性に対する徴用はおこなわず、既婚女性を動員することも避けられた。したがって当初は女子新卒者や無職の未婚女性が労務動員の対象であったが、のちには女子学生・生徒も、学徒勤労動員のかたちで軍需関連工場で働くことになった。
 小平では戦時開発によって生まれた総力戦関連施設に、女学校や高等小学校を卒業したての女性の就職が増えたほか、小平農業会では最初の女性課長が誕生して新聞の話題となった(近現代編史料集③ No.三〇九)。戦時の労働力不足が、結果として女性の就業機会を拡げていったのである。

図4-17 防空服の女性たち 1941年頃
小平市立図書館所蔵

 隣接する田無町で、ある女性が男の仕事とされてきた郵便集配人に志願し、立派にその役目を果たしているとして新聞に紹介された。彼女は「男に出来るのに女に出来ないといふことは無いと思ひましてやらしてもらってゐます。〔中略〕女でも兵隊さんになったつもりで頑張る気ならなんでもないことで、米英相手の長期戦には当然女の仕事の範囲に入るものと信じて毎日を愉快に働いてゐます」と語った(近現代編史料集③ No.三〇七)。ここからは、男性と同等に働けるという喜びや誇りをもち、あるいは男性同様に国家に貢献しているのだという思いをもって、働いていたことがわかる。
 津田塾の女子学生たちも学徒勤労動員で、軍需生産に携わった。一九四四(昭和一九)年三月から校舎は日本航空機立川工場の分工場となった。ある教員は「厚い板金からのゲーヂ作り、複雑な電纜(でんらん)組立作業、精密を要する諸検査、写図、扨(さて)は物理科一年生による合金鋳造部の御仕事。これ程に充実した内容をもつ学校工場は他に存在しないであらう」と「津田塾工場」の充実ぶりを誇っていたが、工場では生産だけでなく管理運営事務もすべて学生たちが担当しており、「誠に純真な学徒が責任を与へられてする仕事ぶりの素晴らしさには頭が下る」と語っていた(近現代編史料集⑤ No.一一五)。またある学生は「男子学徒がペンを棄てて敢然壮途に立つを見送って以来、私共も又女子学徒として何か直接お国の役に立つ仕事をしたいとの願ひを長い間抱いてゐた。その日頃からの望みが容れられて学校工場の誕生をみた時私共はどんなに嬉しく張り切った事だらう」(近現代編史料集⑤ No.一一六)と述べている。男子学生の学徒出陣の悲壮さを思うほどに、同じ学生として国家に貢献したいとの意欲を強くしたのだった。しかし学業への思いも捨てがたく、学生たちは昼夜三交代制で働きながらも、特に希望をして、一日一、二時間の授業を受けたという(『津田塾六十年史』)。

図4-18 「津田塾工場」の作業風景
津田塾大学所蔵

 以上のように、「女性も労働力に」との国家からの働きかけに応えるなかで、女性たちは職場で働くことの誇りや喜びを味わい、男女対等の意識を芽生えさせていったが、同時にそのことが戦争を支えることにもつながっていった。
 徴用の対象とはならなかったとはいえ、既婚女性もそれまで以上に働いた。農家の主婦たちは、嫁として、母としての役割とともに、男子が出征したあとの農家の基幹的な労働力であった。共働きで工場その他の職場で自発的に働き続ける母親も存在したし、勤め人の主婦には内職が奨励された。こうしたなか、政府は女性労働力に期待しつつ、将来の国民を産み育てる母性の保護を強調せざるを得なかった。「家」の維持と「婦徳」の実践、「銃後の守り」と「戦時生活」の確立、労働力としての貢献と母性の強調、と総力戦体制は女性に幾重もの役割を期待し、それらのあいだの矛盾から生じる大きな負担を女性に引き受けさせたのであった。