津田こどもの家

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女子英学塾(一九三三年から津田英学塾)は、移転してきて以来、小平の地域社会との関係づくりに気を配っており、学生たちによる子どもを対象とした日曜学校や津田英学塾青年会の伝道活動、小平村出征兵士への慰問品送付の活動などに取り組んできた(近現代編史料集⑤ No.一〇八~No.一一〇)。しかし、モダンな校舎のミッションスクールと農村社会との文化的ギャップは大きく、教職員たちは「何となく村人と調和のとれぬ思い」を抱え、「英文学を専攻する学生たちが、象牙の塔に住みなれて、社会、殊にその地域社会から浮き上つてしまうこと」を恐れていた(近現代編史料集⑤ No.一一四)。
 こうしたなか塾長の星野あいは、重労働に疲れ果てる農家の女性とその子どもたちのために、農村託児所の開設を思い立った。これに賛同した教職員、学生、卒業生たちは、映画会を開いて資金を稼いだり、卒業生から寄付を集めるなど奔走して資金や資材を調達し、校舎と道を隔てた三百坪の校地に、総工費四千六百円、建坪七〇坪の園舎を完成させた。オルガン、テーブル、ラジオから医務室の器具に至るまで、備品はすべて卒業生からの不要品の寄付に依った。また建設作業には全校三百数十名の学生も参加しておこなわれ、そのようすは「テニスンやワーズワースの詩集代わりにスキやクワを握ってその一振り一つきに尊い汗の奉仕を続けてゐる」などと報道された(『朝日新聞』 一九三九年七月二七日)。
 一九三九(昭和一四)年一〇月一日、同窓会と学友会の経営による「津田こどもの家」が無事開所式を迎えた。学齢前の六~七〇名の幼児に対する保育には、専門の教育を受けた保母二名に加え、「お手伝い」の津田塾生が交代であたり、朝七時半から一六時までの保育時間は「お遊戯、お話、手工等を始めとして、お食事、おひるね、おやつ等の嬉しい事もあり、その後は花壇、畠に水をやる」(津田英学塾同窓会『会報』第四九号)といった次第であった。二〇銭の月謝支払日、母親たちは口々に深く感謝の言葉を述べたという。また農閑期に母親を対象に栄養料理講習会が開催されると、これも好評を博した。

図4-19 お歌の時間(津田こどもの家)
津田塾大学所蔵


図4-20 砂遊び(津田こどもの家)
津田塾大学所蔵

 このように津田こどもの家は地域社会に歓迎され、開設まもなくにして「過去八年間どうしても越える事が出来なかつた村の人等と私等の間のギャップが一度にふつとんでしまつた」のであった(津田塾同窓会『会報』第四八号)。津田英学塾と地域社会との信頼関係がこうして確立したのだった。
 当初、幼児の父兄は近隣の農家がほとんどであったが、一九四二年頃になると「だんだん他所から入つて来た人も増え」、今年はじめて朝鮮人の「子供も入つて参りました。そして家庭の職業は農でも父は職工などといふのが可成ある様で、此にも時局の反映が見られる様でございます」と報告された(津田英学塾同窓会『会報』第五三号)。戦時開発にともなう地域社会の変化は、「地付の人」のための農村託児所というもともとの性格を変えていったのである。
 同時に津田こどもの家に対する幼児教育機関としての期待も高まっていった。こどもの家の出身児童は国民学校で模範生であると評判になり、農家の母親のあいだで「良いお坊ちゃんね、大きくなったら商大へ入れるの」「エエ津田子供の家に入れるのですよ、早くそうなってくれゝば良いのですが」といった会話が交わされ、「此辺の御母さん達は託児所に入れることが御自慢であり理想」になったという(近現代編史料集⑤ No.一一三)。農家の母親たちも将来につながるものとしての幼児教育に関心をもちはじめたのである。
 こうして地域社会に定着し、農家の女性の負担軽減と農村生活の改善に貢献した津田こどもの家であったが、頻発する空襲警報にともなう幼児の退避で保育が成立しなくなり、給食の材料入手も困難になったので一九四五年三月に閉鎖することになった。なお一九四四年五月に東京都は戦時託児所を一七〇か所開設することを決め、一九四五年三月、小川一番に都立小平戦時託児所が開設されたが、空襲の激化から戦時託児所制度自体の廃止とともに、同年六月に閉鎖された。小平戦時託児所は戦後、都立小平保育園となった(『私が見てきた保育の歴史』)。