一九四一(昭和一六)年一二月八日、日本軍はマレー半島に上陸するとともに、真珠湾を奇襲し、アジア・太平洋戦争がはじまった。戦線は、これまでの中国大陸から太平洋、アジア諸地域に拡大し、以後、アメリカを中心とした連合国を相手とする三年半におよぶ総力戦が繰り広げられることになった。陸海軍兵力は、日中戦争開始翌年の一九三八年には約一一六万人だったのに対し、アジア・太平洋戦争のはじまる四一年には約二四一万人へ倍増、敗戦を迎える四五年には約七一九万人に急膨張する。
日中戦争からアジア・太平洋戦争にかけての小平における出征者の正確な人数は定かではない。手がかりになるのは、「小平・ききがきの会」がおこなった各地区ごとの出征者・戦没者調査である。地区の協力を得て実施されたこの調査によると出征者は、小川二七四人、野中二二八人、鈴木一一二人、小川新田(小川山家含む)一九九人、大沼田一一四人、回田四六人、上鈴木三五人、合計一〇〇三人となっている。ただし、上記以外の地区は調査対象に含まれていないため、実際にはこの人数よりも大きなものになる。いずれにせよ、戦時下の小平からは一〇〇〇人を超える兵士がアジア・太平洋戦争に出征したのである。
日中戦争からアジア・太平洋戦争の初めにかけては、「祝出征」の幟を何本も立てた出征者の盛大な見送り風景が村の各所でみられた。神明宮でおこなわれた送別会では、青年団、国防婦人会、在郷軍人会など在村諸団体をはじめ多くの村民が集まるなか村長の激励のもと兵士が送り出された(「九死に一生は紙一重」)。出征兵士は組中総出で見送られ、青年団の楽隊を先頭に、出発駅となった青梅街道駅や小川駅まで盛大な歓送が続いた。近親者のなかには国分寺駅まで見送りに行くものもあった(「小川二番組のこと」)。
しかし、アジア・太平洋戦争が本格化すると、軍の機密上の方針から盛大な見送りは禁止されるようになったため、「段々寂しくなって」、「内緒で小さい旗を作」るなど「あまり大袈裟にできな」くなっていったという(「日赤からの手紙」)。これは軍から極秘の召集令状が警察をつうじて市町村に渡されると同時に、召集されること自体を秘密にするよう通達されたためである。召集されたものには人目につかぬよう私服で入隊することが通達され、また付添人も認められなかった。
盛大に見送られるか否かの違いはあれ、こうして村からは多くの兵士が出征していった。戦争体験者のある女性は、一度出征したものの、体の不調から帰還を命じられた夫を自宅に迎えることになったが、「帰ってきて嬉しいと思うより、他の人が何て思うだろうと、気になる方が強かった」、「召集がこない方がきまりが悪いと思う、そんな時代」(「夫の召集」)と証言している。