小平の戦没者

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アジア・太平洋戦争の日本人の戦没者数は、厚生省の数値によると、軍人・軍属約二三〇万人、外地の一般邦人約三〇万人、空襲などによる国内の戦災死没者約五〇万人、合計三一〇万人にのぼった。ただし統計上の問題から、この数値は正確なものではなく、実際はそれ以上の戦没者数があったとみられている。
 小平の戦没者(軍人、軍属)を地区別・所属別にまとめたものが表4-10である。この表では、地区の区分を『小平町誌』にならい、従来からの字をそのままとった農村的性格の強い六つの区(小川、野中、鈴木、小川新田、大沼田、玉川上水に面した五字)と、戦時開発や戦後の都営住宅設置など新たに開発の進んだその他の地区(学園地区、小川本町、集団住宅、公共施設)に分けた。なお、その他には、戦後新たに小平に流入してきた遺家族世帯が含まれるため、敗戦時点の正確な数値とは言い難いが、小平の戦没者の特徴を把握することは十分可能である。
表4-10 日中戦争およびアジア・太平洋戦争の戦没者数
所属陸軍海軍 
地区軍人軍属軍人軍属合計
小川61612180
野中3025138
鈴木18 7 25
小川新田141  15
大沼田1812 22
五字3421 37
その他855129112
合計260173911329
(出典)小平町「戦没者遺家族実態調査表」1952年より作成。
(注1)大沼田1人とその他1人は所属不明だが、合計には含まれている。
(注2)上鈴木、堀野中、堀鈴木、小川山家、回田を五字とした。
(注3)その他は、都営住宅、集団住宅、小平学園、小川本町、公共施設を指している。

 戦没者は合計三二九人で、所属別では陸軍二七七人(軍人二六〇人、軍属一七人)、海軍五〇人(軍人三九人、軍属一一人)、不明二人である。軍属は技師・通訳など軍人以外の軍務への従事者を指す。地区別では、六区のなかでは出征者の最も多い小川が八〇人と突出している。戦没者の大半は六区から出ているが、その他も一一二人と決して少ないわけではなく、全体の三分の一を非農村地区が占めていたことが読み取れる。
 地区別の特徴は、表4-11の戦没者の職業からも明瞭に読み取ることができる。表4-11によると、全体では農業(六六人、二二・八%)と職工(六四人、二二・一%)が多く、会社員(三三人、一一・四%)がこれに次いでいる。これを六区とその他で分けると、六区では農業が三割を超えているのに加え、職工(徴用工を含む)が比較的多い。農家戸数の多いこれらの地区では、主に農業労働力と農家出身の職工のなかから兵力動員がおこなわれたことが読み取れる。一方、その他の地区では、職工・会社員・商業で高くなっている点に加えて、農業・職工以外の他の業種ほぼ全ての割合が先の六区を上回っている。以上からは、同じ小平においても兵力動員・戦没者のあり方は一様ではなく、地区の就業的特徴を色濃く反映したものになっていたことがよくわかる。
表4-11 戦没者の職業
地区六区その他全体
職種人数構成比人数構成比人数構成比
農業6432.722.16622.8
商業2010.21313.83311.4
職工4824.51617.06422.1
土木・建築業73.644.3113.8
交通・運輸業94.677.5165.5
会社員178.71617.03311.4
吏員42.088.5124.1
技師21.044.362.1
教員21.011.131.0
医師0033.231.0
公団関係52.611.162.1
軍関係63.144.3103.5
学生52.699.6144.8
その他73.622.193.1
無職0044.341.4
合計196100.094100.0290100.0
(出典)表4-10に同じ。
(注)不明は六区18人、その他21人、全体39人で、表からは除いている。

 戦没者の年齢が判明する二八三人でみると、六〇代二人、五〇代二人、四〇代四人、三〇代七八人、二〇代一八六人、一〇代一一人となっている。戦没者の九割以上が二〇代と三〇代で占められているが、少数ながらそれ以外の世代でも戦没者が確認できる。五〇代以上の戦没者は主に軍医や軍属であり、一〇代のそれには学生の従軍者が含まれていた。
 次に戦没者の時期別の推移をみてみよう。表4-12は戦没者数を時期別にまとめたものである。日中戦争段階の戦没者は二七人(八・三%)で全体の一割に満たない。戦没者の大部分はアジア・太平洋戦争によるものであるが、時期によって大きく偏りがみられる。開戦から戦略的攻勢を強め、戦力面でアメリカ軍より優位に立っていた一九四二(昭和一七)年までは僅か三・四%と少なく、アメリカ国内における戦時生産の急速な拡充によって日米の戦力比が逆転し、日本軍が劣勢に立たされる四三年でも八・三%にとどまっている。注目すべきは、このあとアメリカ軍の本格的反攻が開始され、制海・制空権を失った日本が絶望的抗戦に追い込まれる一九四四、四五年の両年に戦没者の六七・一%が集中していることである。こうした時期別の動向は、小平だけの特徴ではなく、岩手県の事例では一九四四、四五年で七一・八%、大阪市の事例では六三・三%というように、全国的に同様の傾向がみられる。また、戦没者は日本の無条件降伏後も一定の比重を占めており、捕虜収容所や野戦病院での戦病死が確認できる。なお、日中戦争からアジア・太平洋戦争にかけての戦没者の死因は、戦死二一四人、戦病死一一〇人、公務死三人、不明二人となっている。以上の数値からは、栄養失調など飢餓によるものを含めた戦病死者の数も少なくなかったことがわかる。
表4-12 戦没者の推移
 
1937年7月7日~1941年12月7日278.3
1941年12月8日~1942年12月31日113.4
1943年1月1日~1943年12月31日278.3
1944年1月1日~1944年12月31日9228.3
1945年1月1日~1945年8月15日12638.8
1945年8月16日~4212.9
合計325100
(出典)表4-10に同じ。
(注)不明4人を除く。

 地域別では、多い順に、フィリピン方面八五人(二六・七%)、中国大陸六七人(二一・〇%)、ジャワ・ニューギニア方面五一人(一六・〇%)、太平洋方面三二人(一〇・〇%)、マレー・ビルマ方面二四人(七・五%)、内地二三人(七・二%)、沖縄ほか島嶼部一四人(四・四%)、台湾・東シナ海方面一二人(三・八%)、シベリヤ・ソ連地区一一人(三・五%)となっている。フィリピンやジャワ・ニューギニアなど激戦の繰り広げられた南方戦線が目立っているほか、日中戦争以降、民族的抗戦の継続する中国大陸の比重が大きかった。また地域別内訳からは、沖縄戦や硫黄島での戦死者、敗戦直前のソ連参戦にともなうシベリヤ抑留による戦病死者がこの小平でも確認できる。