アジア・太平洋戦争では日本本土が空襲によって直接攻撃にさらされ、女性や子どもを含む多くの民間人の死傷者を出したことがこれまでの対外戦争と決定的に異なる点であった。アメリカ軍のB29による日本本土への空襲は、一九四四(昭和一九)年六月一五日の北九州が最初であり、一一月二四日にはマリアナ諸島を基地とするB29が東京を初空襲し、中島飛行機武蔵製作所が爆撃された。以後、同方面からの本土空襲が本格化する。当初、アメリカ軍による対日爆撃の目標は軍需産業施設に定められたが、一九四五年三月一〇日の東京大空襲以後は、都市部に対する夜間の無差別爆撃がおこなわれた。
小平における最初の空襲被害は、一九四四年一二月三日午後二時過ぎ、武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所を目標としたB29八六機によるもので、現在の花小金井駅東方に爆弾が落とされた。線路二か所が破壊されたほか、陸軍経理学校内の敷地や町内の畑地が被弾している。「小平・ききがきの会」のまとめによると、このあと小平の空襲被害は、一九四五年一月九日(目標・中島飛行機武蔵製作所)、四月二日(目標・同上)、同四日(目標・立川飛行機会社)、同一九日(目標・不明)、同二四日(目標・日立航空機立川工場)、五月二五日(目標・東京市街)の計六回を数えている。『東京都戦災誌』によれば、四月二日の空襲では「武蔵野町の中島飛行機製作所を始め、西部地区に相当の被害があった」、「小平町に多数の時限爆弾落下家屋全壊二戸半壊一戸の被害あり」と記録されている。空襲による戦災死没者は、一九四四年一二月三日の空襲で女児二人が亡くなったほか、四五年四月四日の空襲で農家に爆弾が直撃し老人一人が亡くなっている。
小平に最初の空襲被害が出た翌日(一九四四年一二月四日)、小平町は小平青年学校で緊急町会協議会を開催し、「罹災者見舞弔慰金ニ関スル件」を協議した。空襲被害状況は、家屋全壊二戸、半壊八戸、死亡者二人と報告されている(近現代編史料集② 三〇頁)。町は、見舞金として家屋全壊五〇円・半壊三〇円、物置蚕室全壊三〇円・半壊二〇円、死亡者五〇円、負傷者重傷三〇円・軽傷二〇円の支給を決定している。これは空襲に備える戦災応急対策として東京都が発した「東京都戦時災害見舞金支給ニ関スル件通牒」(一九四四年一一月一八日)を受けたものであった。政府および都はこのあと防空土木施設の追加整備など防空対策の強化をはかっていくが、戦局の帰趨(きすう)はもはや明白であり、十分な効果をあげるには至らなかった。
空襲の恐怖については、「前にB29が一機、二機照明弾を落として行くんです。照明弾を落とすと昼間のように明るくなるんだよね。あとに続くB29がそれを目がけて」(「今も残る、欅の木に爆弾の破片が」)、「赤い照明弾の色が…、私も母に手をひかれて…、歩けないんですよ、足がすくんでしまって」(「家族全員が生き埋めに」)というように、多くの体験者の証言のなかに鮮明にあらわれている。小平における戦争体験のなかで空襲の占める位置は大きい。