かつて宮本常一は「人力を主要なエネルギーとした生産社会を民俗社会」と規定したが(『宮本常一著作集』第一巻)、明治・大正の小平村は、基本的には農業生産だけでなく、移動の手段も「人力を主要なエネルギー」とする段階にあった。一日に往復できる範囲こそが日常的な行動範囲の限界で、それを生活圏と呼ぶことにするならば、一日に四〇km歩くのが精一杯だとして、半径二〇km圏内、おおよそ北は川越、西は青梅、八王子、南は町田、東は新宿が生活圏の限界付近ということになる。また自転車や鉄道、自動車が使われはじめる昭和になると、行動の範囲が広がるだけでなく、毎日の生活圏内の行き来も活発になっていった。以下、小平村の人びとの生産とくらしにかかわる移動の諸相と生活圏を考えてみよう。
まず農業にかかわる日常的な移動である。西瓜やトマト、なす、白菜などの野菜は、大八車・リヤカーに積んで、のちには自転車も使って、淀橋(現新宿区)や「八ちょう」(現杉並区)の市場まで、青梅街道や五日市街道を運んでいった(「小平青年学校の思い出」)。一九四〇(昭和一五)年頃になると小平でも個人持ちの自動車が走るようになり、農家三軒分の西瓜八〇〇個を積んで、神田市場に運ぶ光景も見られるようになった(「ガソリンの匂いは、いい匂い」)。
一方、作物の出荷の帰りには、肥料にするし尿(下肥)を運ぶこともおこなわれていた。これは江戸時代以来おこなわれてきたことで、江戸のし尿排出→周辺農村で下肥を使った農業→江戸への作物出荷→江戸での消費とし尿排出……という循環(エコサイクル)が成立していたのである。戦時中に輸送手段や人員の不足のため、帝都のし尿処理が追いつかなくなった時、東京都の委託で西武鉄道がし尿を運んだことはよく知られているが、江戸時代以来の循環システムが大規模化したものということができる。