祭りや参詣

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非日常の祭りともなれば、小平には近隣から徒歩で人が集まり、また小平の人びとも近隣の祭りに徒歩で繰り出していった。小川四番の瘡守(かさもり)稲荷は小山家の屋敷神であるが、霊験あらたかということで所沢付近からも信者が集まったという(小山喜彬より聞き取り)。桜の時期には、お花見に東京から、また北は所沢一帯から玉川上水の土手沿いに多くの人がやってきた。

図4-21 現在も信仰を集める瘡守稲荷(小川町)

 逆に府中の大国魂神社の暗闇(くらやみ)祭には、小平や東村山、所沢あたりからも若者連が繰り出していった(近現代編史料集③ No.一二四)。その彼らは、祭りの帰りに興奮さめやらぬまま悪戯(いたずら)を働き、石塔が窪(現新小平駅付近)に建立されていた「貞和の碑」を東村山まで運んでいったようだ。東村山の正福寺にはそれを語る石碑がいまでも残っている(『小平ちょっと昔』)。
 講中による神社参詣もあった。日照りに苦しむと青梅の御嶽神社へ参拝祈願は欠かせなかった。代参を立て神社祈願、御神水をいただき、ひたすら歩き走り、帰村すると雨乞祭であった。雹(ひょう)被害には群馬の榛名神社へ、防火には静岡の秋葉山へ、そのほか神奈川の大山阿夫利神社へは雨乞い祈願、山梨の富士浅間(せんげん)神社は村の安寧と豊作を願いに出かけていった(「青年訓練所時代のことなど」)。
 昭和はじめまでは、毎年新潟から瞽女(ごぜ)などの旅芸人がやってきて、門付(かどつ)けで三味線を弾きながら、歌をうたい、オヒネリを貰い歩いた。夜には宿泊先で人びとを集め、芸を披露したが、国分寺では「聞きに来た人で部屋が一杯になるほどであった」という(『国分寺市の民俗』第五集)。