婚姻が結ばれる空間的な広がりを通婚圏という。かつては一般に村内か、せいぜい近隣の村までが通婚圏であった。ただし小平の場合、村外への広がりは青年の夜遊びの範囲と合致するといってもよい。小平の青年は機織りの盛んな村山(現武蔵村山、東大和、東村山)へ遊びに行き、そこで知り合った女性と結婚することも多く、「小平男と村山女」という言葉があったほどである(『ちょっと昔 小平の生活あれこれ』)。
一方、家格が上位の家では、同等の家格の家との婚姻をもとめるため、より広い地域から相手を選ぶ必要があった。一九〇六(明治三九)年三月三〇日、小川弥次郎家では、嗣子である愛次郎の嫁として、多磨村上染谷(現府中市白糸台)の村野泰治家の娘・光子を迎えた。小川弥次郎は郡長、相手方の村野泰治は郡会議員という北多摩の名家どうしの結婚で、仲人として小川家は神明宮の宮司・宮崎杉太郎家を、村野家は常久(現府中市若松町)の関田家を立てた。花嫁は上染谷から国分寺まで人力車で、そこから川越鉄道で小川駅へ、また人力車で小川家に到着した。嫁入り道具は、箪笥(たんす)二棹(さお)、長持一棹、挟箱(はさみばこ)一つ、鏡台、夜具などが、上染谷から荷車で運ばれてきた。見合もなく当人たちの意思とは無関係に決められた結婚で、結婚式が終わるまで、花嫁は愛次郎の顔を見ることさえできなかったという。
さて当時、小平村や砂川村は、多磨村地域から「北方(きたかた)」と呼ばれ一段と低く見られていた。「小川砂川土地アよいけど粟めし食うのがわしゃつらい」といわれ、「北方者はお湯に入ると浮いてしまう」と揶揄(やゆ)されていた。したがって花嫁の親戚筋は、小平村へ嫁ぐことに不安をおぼえたようである(「小川愛次郎氏を訪ねて(1)」)。もっとも通婚をつうじて各家の生活圏が拡大し、したがって地域間の交流が増えることになり、こうした街談巷説(がいだんこうせつ)や偏見は是正されることになった。