通勤・通学圏

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一九三〇(昭和五)年の国勢調査によれば、小平からほかの市区町村に通勤するものは二二六人(男一七七、女四九)で、都心の麹町・神田に通うものが二九人、立川に二五人、国分寺、所沢に各一八人、武蔵野町一五人などとなっている。一方、小平に通勤してくるものは四九人(男四七、女二)で、半数は国分寺からの通勤者である(『小平町誌』)。全体の人口からすると微々たる存在であるが、中には電車を使って都心に通勤する者がいたことがわかる。
 近隣への、あるいは近隣からの通勤には自転車が用いられていた。一九二八年に小平第一尋常小学校に赴任してきた男性教師は、立川からの通勤に自転車を用いていた。当時、川越鉄道は国分寺―小平―東村山の各駅を通る客車が一時間に一本の割合だったからである。自転車でも約一時間の道のりだが、ときには「小川橋手前の雑木林の中央で追剥(おいはぎ)と遇(あ)う」こともあったという(「回想」)。また同時代には、自転車に乗っていて、小平と国分寺の結界(境界)付近の久右衛門橋(現津田塾大近く)で、狐に化かされた話も残っている(『国分寺市の民俗』第五集)。

図4-22 半被(はっぴ)をはおる男と自転車
小平市立図書館所蔵

 一九三六年のことであるが、青梅街道を花小金井から西砂川尋常小学校まで、自転車で通う洋服に帽子、靴を履いた「ハイカラな女教師」がいた。所要時間四〇分、砂利道の沿道を走ると、「街道筋の青年達が毎日」通るのを楽しみに待ち構えていたという(「戦時下の教師として」)。以上のように、自転車は人びとの心意に不思議さや興味をよびおこしながら、通勤圏を広げたということができる。
 次に通学圏であるが、小平からの主な進学先としては、中学校は立川の府立第二中学校(現立川高校)、実業学校は青梅の府立農林学校(現青梅総合高校)や府中の府立府中農蚕学校(現都立農業高校)である。農蚕学校に入学した田中次雄は同級生四人と一緒に、小川から自転車で三〇分ほどかけて通ったという(「青年訓練所時代のことなど」)。女子については、高等女学校は八王子の府立第四高等女学校(現南多摩高校)、や青梅の青梅実科高等女学校(現多摩高校)が主な進学先であった。