人びとは医療を受けるため、どのくらいの範囲を移動しただろうか。大正時代には赤痢などの伝染病にかかると、小平の「避病院」(現警察学校北門付近)に隔離された。盲腸などのむずかしい病気になると所沢の荒井病院などに入院したという(小川善一より聞き取り)。さらに重病人は、所沢街道を「荷車に囲いをしてわからないように」して引いて、川越の病院まで運んだこともあったという(「避病院と店屋などの話」)。
一九二八(昭和三)年に昭和病院ができた。北多摩地区の伝染病対策の所轄であった田無署管内の田無町、小平村、武蔵野村、保谷村、久留米村、清瀬村、大和村、東村山村の八か村(のちに国分寺村も加わる)による組合立の病院であるため、これら町村の伝染病患者が収容された。入院患者は、年により増減があるが、一九四四年には、普通病外来患者延数は一万二〇八四人にのぼり、その居住地は右の田無管内にとどまらなかった(『公立昭和病院五十年のあゆみ』)。