しかしこうした流入人口が、定着に向かったといえるかというと、必ずしもそうではない。第一に、一九四四(昭和一九)年の一万五五九五人を戦時のピークとすると、敗戦直後の四六年には一万三五五七人と、約二千人が減少しており、この時期は引揚者・復員者・罹災者の流入が多かったこととを考えあわせると、この間にかなりの人口流出があったことになる。すなわち敗戦にともなって陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠、陸軍技術研究所、北多摩通信所、東部国民勤労訓練所といった軍施設や総力戦関連施設はただちに機能を停止し、それらに関係していた軍人・軍属、工員、職員などの多くが、復員・失業で流出していったのである。もちろん中には敗戦後も比較的食料事情のよい小平に滞在を希望した者も少なくなかったと思われるが、通勤可能圏に仕事が得られなければ、定着は困難であっただろう。総力戦体制という国民を移動させていくシステムは、敗戦によるその崩壊にともなって、ふたたび大きな人口移動をもたらすのである。
第二に、小平につくられた施設のうち、陸軍経理学校や東部国民勤労訓練所は、教育・研修施設という性格をもつのであり、そもそも定着人口をつくりだすものとはいえなかった。前者の入学者は寄宿舎に生活し、規定の年限で卒業して戦地へ散っていった。後者の入所者は短期で研修を終えて、全国各地の軍需工場に移動していった。傷痍軍人武蔵療養所の入所者もあわせ、戦時開発にともなう増加人口の少なからぬ部分が、滞在型の人口であることが小平の特色であった。