第二に、「学校農園」に農作業にくる生徒である。東京市内の中等学校や高等女学校が、戦時に花小金井付近に土地を借りて農園を運営するようになった。東洋英和女学校の一八〇〇坪の農園をはじめとして、大妻高等女学校、牛込高等女学校(現豊島岡女子学園)、共立高等女学校、麹町高等女学校(現麹町学園)、早稲田中学、帝国第一高等女学校(現吉祥女子)の農園があって、毎日ではないが、午後に生徒が農作業にやってきて、甘藷、大根、麦などをつくっていたという。農業実習というよりは、不足する食料を補うための必要に迫られた農作業である。農園にはそれぞれ世話人がおり、生徒たちへの農作業の指導のほか、日常的に農園の管理をしていた。生徒たちの農作業は、勤労動員で軍需工場へ動員されるようになった一九四四年頃まで続いた(「小平にたくさんあった学校農園」)。また早稲田大学の小平錬成場(久留米道場)が西武鉄道東小平駅の北にあり、三、四〇人の学生の集団が校歌を歌いながら行進して施設に向かっている姿がよく見かけられた。彼らも精神と身体の「錬成」のためと称して道場に寝泊まりしながら、農作業をしていた(「早稲田大学久留米道場(小平錬成場)」)。皮肉なことに戦争にともなう食料不足は、都会っ子の女学生やインテリ学生が土に親しむ機会を作り出したのである。
図4-23 共立高等女学校・小平農園で大根の収穫 1942年
『共立女子学園の100年』
第三に、東京市内からの「買い出し部隊」の人びとである。統制対象の食糧その他の物資を制度外で売買することは違法行為であったが、配給では足りないため「闇」の取引が横行した。所用で村にやって来た人だけでなく、わざわざ鉄道に乗ってきた買い出しの人たちが、警察や翼賛壮年団の監視の目(第四章第三節1参照)をかいくぐりながら、公定価格の三割から五割増しでイモや野菜を買っていった(近現代編史料集③ No.二九九)。食料ばかりでなく、「リュックや大風呂敷姿で押し回り糸でも足袋でも煙草でも薬までも買いあさる有様」も見られたという(近現代編史料集③ No.二三〇)。しかし、物資の欠乏が深刻化し配給制度がほとんど機能しなくなった敗戦間際になると、徐々に「闇」が公然化していき、リュックを背にした買い出し光景は敗戦後もしばらく続いた。戦時・戦後の食料の欠乏は、都市と農村の関係性における農村優位の状況を生み出したのである。
以上のような総力戦にともなう人の移動の活発化や移動範囲の広域化は、交通の発達を前提としていることはいうまでもない(交通については第三章第一節2参照)。小平への勤労動員や学校農園の生徒たちは、東京の山の手や中央線沿線の学校から電車を乗り継いでやってきた。また学校農園の立地や買い出し部隊の出現という現象は、小平が都心から一時間圏の交通便利な農村地帯だからこそであろう。
敗戦間際になると、こうした日常的な移動は危険にさらされることになった。八王子中学の生徒だった伊藤和之は、勤労動員で西立川の陸軍多摩航空技術研究所で働いていたが、研究施設の屋上にレーダーをつける作業中と、工場に真空管を取りに行った中央線の車中での二度、米軍戦闘機による機銃掃射攻撃を体験した。操縦士が見えるような距離から狙われるのは、恐怖の体験であった(「学徒勤労動員でレーダーの研究」)。日本軍の防空能力の低下にともない、米軍は夜間の空襲だけでなく、昼間には機動部隊の艦載機による機銃掃射攻撃で、軍事施設や生産基盤の破壊をねらった。しかし、列車や駅への攻撃では一般市民の被害が大きかったし、道を歩く非戦闘員に対しても攻撃がおこなわれたのである。