図4-24 90歳頃の小川愛次郎
小平第一小学校『創立九十周年記念誌』
こうして培われた人脈や識見をかわれ、愛次郎は日中戦争期のころは満鉄調査部に嘱託として勤務し、たびたび日本の対中国政策にかんする意見書を提出していた。たとえば一九三八年七月末、彼は対中国和平工作を模索していた宇垣一成外相に対し、外務省東亜局長の石射猪太郎を介して「時局ノ動向ト収拾策(講和大綱)」を提出し、蒋介石政権との和平案を提案していた(『支那事変関係一件/善後措置(和平交渉ヲ含ム)』)。アジア主義者としての彼には「日支両国の間には、侵略征服に非ざる、互譲と共存共栄の可能性が思想的に厳存している」(同前)という信念があった。にもかかわらずそれが現実化しないのは、統一に向かう中国の民族意識を軽視する「日本人の対支認識不足」のためであり、日本軍が南京その他で「略奪強姦」「虐殺放火」を繰り返すことで、中国民衆の「抗日心」を増幅させているからであるとして、日本の戦争指導層や日本軍の体質を厳しく批判した。
その愛次郎の弟が、関東州(ポーツマス条約でロシアから租借権を得た遼東半島の突端部)で植民地行政官を務めた小川順之助である。順之助は一九一一年に東京帝国大学法学部を卒業後官界に入り、一八年、関東州の旅順に赴任して、関東都督府・関東庁において植民地統治の実務に携わった。そして一九三一年には関東州の貿易都市・大連の第六代市長に就任し(三五年まで在任)、満州事変から満州国建国、さらには華北分離工作へと日本の中国侵略が本格化した時代に、満蒙地域への玄関口の行政をつかさどったのだった。なお小川兄弟末弟の四郎も満州拓殖公社員として新京などに滞在していた(「中国で活躍した小川愛次郎」)。
小川順之助の家にお手伝いとして小平から赴いた女性もいる。Sさんは一九二一(大正一〇)年に「神戸から三日三晩船に揺られ」て旅順に渡ってみると、中国人の使用人をたくさん使った、優雅なくらしに驚いた。
「ご主人の家は大きくて部屋が七つもあり、廊下も広くてね。外は寒いのにペチカが三か所も燃えていて、部屋は暖かかった。六畳か四畳半だったかの自分の部屋を貰えて、中国人のお手伝いさん、お勝手(炊事係)をする二人のボーイもいた。〔中略〕私の仕事は二人の子どものお守り(小学一年の男の子の学校の送り迎えと、下の女の子のお世話)でした」
「旦那さんが出かけるときに車や馬車に乗ってお供することもありました」
「旦那さんが出かけるときに車や馬車に乗ってお供することもありました」
(「働きながら家事・行儀見習い」)