満蒙開拓青少年義勇軍

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小川善一は、一九三八(昭和一三)年二月、小平青年学校二年生(一六歳)のときに、新聞の募集記事をみて出願し、満蒙開拓青少年義勇軍に入隊した。国策として推進されていた満州移民であったが、日中戦争がはじまると兵力や労働力の動員が増大したため、成人の開拓移民が困難になった。そこでかわりに青少年を送り出そうとつくられたのが、満蒙開拓青少年義勇軍であった。一六歳から一九歳の農家の次三男を集め、茨城県内原訓練所で精神主義的な農業教育と軍事訓練を受けさせて満州各地に送り出し、さらに訓練を重ねたあと、開拓事業に従事させた。その数は敗戦までに八万数千人におよんだ。

図4-25 小川善一(満州にて) 1944年
小川善一氏所蔵

 善一は二か月の訓練所生活を経て同年四月、先遣隊として満州国牡丹江省寧安県に渡り、宿舎建設や開拓に従事した。彼はそのころ父に宛てた手紙のなかで「家を出て早や半年夢の様です、大陸の沃野にさん/\と降り注ぐ陽光の下に元気溌剌(はつらつ)と大理想郷建設の希望に胸を躍らして真黒になつて働いてゐる私達は幸福の限りです」(近現代編史料集③ No.二〇九)と書いた。また別の手紙では「小平第二の故郷」を満州につくろうと、後輩たちに参加を呼び掛けていた(近現代編史料集③ No.二〇八)。
 しかし、入植地の現実は「大理想郷建設」にはほど遠かった。開拓とはいいつつも、実際には現地住民が耕した土地を安く買いたたいてばかりで、追い出された中国人は日本人の下働きに使われるか、強制的に移住させられた。義勇軍の隊員が現地の人から反感を込めて「ショウクイズ(小鬼子)」と呼ばれるのも当然であった。一方、隊員の寄宿舎は狭く不衛生で、ホームシックからノイローゼになる者が出ても、放置されるだけであった。冬になればマイナス三〇度になる厳しい気候も隊員を苦しめた。隊員たちのストレスは宿舎で爆発し、「憂さ晴らしでリンチは毎晩ありましたが、みんな見て見ぬふり」という状況であった(「満蒙開拓青少年義勇軍から現役兵に」)。