南方人材の育成

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小川善一は茨城県内原で訓練を受けて満州へ渡ったが、小平にもアジアの開発を担う人材を養成する機関があった。一つは第三章第一節3で紹介した海外拓殖学校・東京高等拓殖学校で、これは一九四〇年に拓殖大学に吸収合併され、校地は茗荷谷にある本科に進学するための拓殖大学予科校舎となった。
 そしてもう一つが、一九四一年五月五日に開校した拓南塾である。一九四〇年頃になると、日中戦争の行き詰まりを打開するために武力を用いて南方進出し、重要資源の自給圏である「大東亜共栄圏」を建設するという南進論が台頭するようになった。それが南部仏印進駐(一九四一年七月)のかたちで現実化したことで、対英米戦争への道が決定づけられていった。このような情勢のなかで拓務省は、一八歳(中等学校四年終了)以上を対象に二年間の教育訓練を施して、「南方に活躍する若き人材を育成する」として拓南塾を創設することを決めた(『朝日新聞』一九四〇年一二月二一日)。小平青年学校を増改築した塾舎には、二〇倍の入試倍率を突破した一〇〇名の若者が集って、全寮制のもとで切磋琢磨した。同塾はその後水道橋、石神井、保土ヶ谷へと移転していったが、実践的な教育と厳しい訓練を通じて、南方統治と資源開発のための「中堅人物」を輩出したのだった。このように小平村は、アジア進出のための人材育成の場でもあったのである。

図4-26 校庭で剣道に励む拓南塾第一期生たち
三國隆三『ある塾教育』