小平にやって来た人びと

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小平からアジアに出ていく人ばかりではなく、アジア諸地域から小平にやってきた人たちもいる。先に触れたように(第四章第一節3)、戦時開発にともなう土木・建築作業のために朝鮮半島から渡ってきた人びとが動員され、茜屋橋近くの飯場に集住していた。そのほかにも陸軍兵器補給廠小平分廠では、引込線の貨物列車から荷を降ろし、荷馬車で運搬する作業に大勢の朝鮮人が働いていたという(「十四歳で陸軍補給廠に動員される」)。前者のような飯場の場合は、一般に周囲の社会からは孤立的であったが、一方で小川の「津田こどもの家」には朝鮮人の子弟も通園していたといい(第四章第三節3参照)、小川方面の朝鮮人来住者と日本人との間には、混住による生活上の交流が生まれていた可能性がある。
 小平に学びにきた学生もいた。東京商科大学には植民地である台湾や朝鮮出身の学生に加え、満州事変後はその他のアジア地域出身の留学生が増えたという。一九四一(昭和一六)年の卒業式では、満州出身者二名、中国出身者二名、アメリカ日系二世三名、タイ、ビルマ出身者七名の外国籍の卒業生に対し、高瀬学長は「将来永久に提携の実を挙ぐるよう努力を望む」との言葉を贈った(近現代編史料集③ No.二九〇)。
 インドからやってきた独立運動家が小平に住んでいた。マヘンドラ・プラタップ(一八八六~一九七九)である。彼は裕福なインド貴族の家に生まれ、実業界で成功を遂げたが、二八歳の時インド独立運動に生涯を捧げることを決意し、民族独立運動と世界連邦運動に邁進しながら世界を遍歴するうちに、一九二二年に来日し、インドから亡命していた独立運動家のビハリー・ボースや、アジア主義者である大川周明、満川亀太郎らと交流をもった。その後も理想の実現のために世界を股にかけて活動したあと再来日した。一九三八年、プラタップは小平村の津田英学塾にほど近い場所に四〇〇坪の土地を入手して、世界連邦日本支部を建設した。そこには彼に共鳴する日本人やインド人だけでなく、中国、モンゴル、ベトナム、フィリピン、トルコ、ドイツ、イタリアなど、人種、国籍、宗教を異にしたさまざまな人びとが集ったという(「世界連邦運動の先覚インドのプラタップ公」)。新聞では「最初は小平村にきて誤解されはしないかと思ってゐましたが親切な村人の態度や言葉にすっかり安心していまでは隣組の一員にさせてもらってゐます」と、地域社会に溶け込んでいるようすを語っていた(近現代編史料集③ No.二一八)。プラタップはその後、日本軍との連携を強めたビハリー・ボースらとは距離を起き、小平にこもっていたのだという。敗戦後戦犯容疑者として拘引されたが、一九四六年春に釈放され、インドに戻ったのちも民族独立と世界連邦運動に奮闘した(「世界連邦運動の先覚」)。