中国大陸から南方へ

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国分寺の軍需工場で働いていた岡田久義にとって、一九四二(昭和一七)年三月一八日は忘れられない日付となった。胸の病で第二乙種合格であった彼にも、いよいよ召集令状が届いたのである(以下「我が従軍記」による)。歓送会の翌日の二五日近衛第三連隊に入隊したが、すぐに習志野学校に派遣され、半年間毒ガス戦の訓練を受けたあと原隊に復帰、翌年三月になって中国北部に転属することが決まった。列車で下関へ、そこから船で釜山、ふたたび列車で山東省〓州まで行き、第三二師団兵器勤務隊に配属された。山東省一帯の日本軍をまわって兵器の修理を担当する部隊であるが、いざというときには戦闘にも参加した。彼が斥候としてある部落に着いたとき、村人たちは表面上愛想良く迎えてくれた。しかし部落内の至る所に「抗日」「反日」「侵略日本軍を殲滅(せんめつ)せよ」の看板、そして帰途に「便衣兵(べんいへい)」からの襲撃を受けた。このときはじめて死を覚悟した。
 第三二師団は一九四四年三月、南方への移動を命ぜられた。行き先も告げられず徐州や南京を経て四月一七日上海から護送船団の輸送船に乗った。船が台湾やマニラ等を経由してセレベス海にさしかかったとき、アメリカ軍の潜水艦による魚雷攻撃を受け沈没、岡田は八時間あまりの漂流の末、味方の駆逐艦に助けられて九死に一生をえた。この船団ではハルマヘラ島ワシレに着くまでに、四隻の輸送船が沈没し三二〇〇人以上が海の藻屑と消えたのだった。ワシレでは船の積み荷を運ぶのには現地の人を使役した。最初のうちこそ物資はあったが、その後戦況は悪化の一途。米軍の空襲は激しくなり補給も途絶えて食糧は尽き、兵はやせ細ってマラリアやデング熱で倒れた。岡田の師団はここで終戦を迎え、兵器勤務隊に復員命令が出たのは一九四六年五月であった。復員船で和歌山県田辺に上陸、列車で東京に向かい、同年六月八日、五年ぶりに鈴木新田の我が家に着いた。

図4-27 岡田久義の移動の軌跡
小平・ききがきの会『そのとき小平では』第6集より作成。海南島からインドシナ半島を経てマニラへ至る経路は推定。