小川新田の農家出身の土方アイは、日本赤十字社の看護婦養成所を卒業して陸軍軍医学校で働いていたが、一九四五(昭和二〇)年一月、従軍看護婦として中国に渡った。この時点でも「負けるはずがない」と思っていたので、働きがいのあるところとして中国行きを志願したのだった。南京に着いたとき、先にきていた同級生には「もう帰れないわよ」「帰るつもりになんかならない方がいいわよ」と言われたという。配属先は中支第一五六兵站(へいたん)病院の伝染病棟で、チフスや赤痢の患者を看護した。手伝いの中国人がいたものの、彼女は中国語は覚えなかった。八月一五日、「重大放送があるから」ということで病院の炊事場に集められて聞いたラジオ放送は、意味がわからなかった。それから一か月の間に病院は中国軍のものとなり、日本人看護婦の仕事は中国人看護婦の手伝いへと立場は逆転、中国人のスタッフや患者との意思疎通も日本語から筆談へと代わった。しかしそうした仕事のなかでも「敗戦国の看護婦という感じはなかった」。ただ怖かったのはコレラ病棟での感染で「生きて帰れればめっけもの」と思ったという。のちに引き揚げ船を待つため上海の病院に移った。中国人からは、混乱する日本には帰らない方がいい、と暗に居残ることを乞われたが、一九四六年五月、博多までの引揚船に乗った。列車で着いた東京が焼け野原と化していたことに驚かされたが、変わらない小平の風景を見たとき、「帰ってきたんだなぁ」と心底思ったという(「男は兵隊、女は看護婦」)。
図4-28 土方アイ、南京病院診療所前にて
小平・ききがきの会『そのとき小平では』第7集