満州の日本軍

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立川飛行機に勤務していた金子総一は、戦争末期の一九四四(昭和一九)年八月に召集され、満州の斉斉哈爾(チチハル)飛行場の教育飛行隊で、飛行機の点検・整備・エンジン調整の仕事についた。飛行場は「満目百里の言葉どおり、見渡す限り広大な草原」のなかにあった。内地ではまず見ることのできない雄大な風景であった。
 一方で、彼は満州での軍隊体験のなかで頽廃(たいはい)する日本軍の体質を目の当たりにした。彼はあるとき内地での飛行機開発や生産状況の情報が欲しいという下士官から料亭に誘われたが、そこで目にしたものは豊富な酒と「今どきこんなものがという料理」であった。一九四五年八月八日にソ連が参戦すると、すぐさま斉斉哈爾飛行場は爆撃を受け、金子の部隊は目的地をつげられぬまま貨車で「緊急移駐」ということになった。土砂降りのなか、一般兵士は無蓋車に、将校は有蓋車に乗って新京(長春)まで移動したのだが、民間人や開拓団の人たちは置き去りにしたままであった。その後金子は大連の収容所で二年近くの間抑留されることになった(「満州での飛行機整備」)。

図4-29 土方アイ、金子総一の移動の軌跡
小平・ききがきの会『そのとき小平では』第2集、第3集より作成。
金子総一の浜松より斉斉哈爾へと至る経路は推定。