以上みてきたように、近代の小平村の人びとの活動圏は、海の向こうのアジア各地にわたっていた。アジアを舞台にした小平村の人びとの移動は、日清戦争にはじまり、その後アジア・太平洋戦争の終結まで一貫して続いていた。村の人びとの盛大な見送りに後押しされて戦地へ赴いた人びとも、戦争が敗北に終わると、「無言の帰国」も含め、アジアから一挙に帰還してきた。
もちろんアジアへの移動は、戦時の出征や従軍だけでなく多様であった。小川愛次郎の場合はアジア主義の理想を動機として単身中国へ渡ったし、順之助の場合は旅順への赴任であり、そこに労働力として渡ったSさんなど、理由はそれぞれである。この場合、小川家を中心とした中国への移動の連鎖があったことが興味深い。
逆に小平は、アジアの開発や解放を夢見る人びとが国内外から集まる場所でもあった。アジアに雄飛しようとする若者を育てる学校や、民族の解放のための工作をするインド人など、小平は、アジアとの連帯を唱えるアジア主義の空間でもあったのだ。同時に戦時開発の労働力として小平に動員されてきた朝鮮の人びとがいたことも忘れてはならない。
戦時であれ、平時であれ、小平村とアジアとの間での人びとの移動は、大日本帝国の膨張から崩壊へという歴史過程のなかで起きた出来事であった。少なからぬ小平村の人びとが、支配の対象として、あるいは友好の相手としてアジアを体験し、人びとと交流をもった。こうした戦前・戦時の小平村の人びとのアジア体験については、その意味を問い直し、語り継ぐことは必ずしも充分になされてこなかったが、しかし紛れもなく、小平村の歴史の一コマであった(一九九〇年代の「平和のための戦争展・小平」については第八章第二節2参照)。