当時小金井カントリーでプレーした人のなかには、東久邇宮、高松宮、朝香宮といった皇族をはじめ、近衛文麿、近衛文隆(近衛文麿長男、アメリカ留学中にアマチュアゴルファーとして活躍)、鍋島直泰(鍋島家当主で名ゴルファーとして知られた)、芳澤謙吉(外交官・貴族院議員)、五島慶太(電鉄経営者)、青木一男(大蔵官僚から大東亜大臣など)など、ゴルフ好きで有名な政財界の大物が多かった。当時キャディを務めた鳥塚治平によれば
近衛さんは背が高くて、口ひげを生やしてあまり口を利かないんですよ。〔中略〕でも回り終わった時に「ご苦労さん」なんて言われるとね。同じキャディとして付くのならそういう人に付きたいですよね。五島さんは明るい人でキャディを本当に大事にしてくれるんです。チップも多かったし必ずくれたしね(「宰相近衛文麿さんのキャディーを勤める」)
とのことであった。キャディーには地元の農家の少年や女性が雇用されていた。皇族のキャディーについたときは、遠くからも目立つように赤い帽子を着用したという(同前)。
図4-30 プレー中の近衛文麿(中央)
『小金井カントリー倶楽部30年史』
一九四〇年九月、ぜいたく品の統制が本格化し、「新体制」が叫ばれるなか、日本ゴルフ協会は「ゴルフの自粛について」という通達を発した。ぜいたくな飲食や服装、自家用車使用を自粛すること、ボールや器具の原則国産品使用、三〇歳未満のものの入会不許可、賞金をともなう大会をしない、など自粛項目を列挙するとともに、「ゴルフ人の邁進すべき大道」は「心身鍛錬、国民体位向上」にあるとして、戦争とゴルフが矛盾しないことを訴えた。さらに一九四三年には国産ボールの配給が打ち切りになり、ゴルフ入場税が五割から九割に引き上げられ、ゴルフ用語も「敵性語」であるとして日本語に変えられるなど(ゴルフ→打球)、ゴルフの受難は続いた。その頃外交評論家の清沢洌は、彼がプレーする軽井沢のゴルフ場の閉鎖を翼賛壮年団が主張していることに対して、「彼らは知識人が休息の要あることを知らぬほど無知であり、また根底に破壊と嫉妬あるを見る」と憤懣(ふんまん)を日記に書き付けた(『暗黒日記』一九四三年七月一四日)。「ブルジョア遊戯」というイメージの強いゴルフに対する、世間の風当たりは相当に強かったのである。
しかし小金井カントリー倶楽部は一九四四年頃まで「軍部の圧力はさほど無いといっても良いほど」であったというが、それは「皇族の方が時折お見えになり、ゴルフを楽しまれていたことによるのかもしれない」とされている(『小金井カントリー倶楽部五十年史』一一三頁)。その推測の当否はともかくとして、陸軍大将で当時防衛総司令部総司令官を務めていた東久邇宮が、毎週のように日曜日になると小金井カントリー倶楽部でプレーしていたことは、「東久邇宮日記」からわかる。
東京がB29による初空襲を受けたのは一九四四(昭和一九)年一一月二四日であるが、その日の空襲による被弾の痕を小金井のコースで見たことが一二月三日の日記に記されている。「〔二四日に〕クラブハウスのすぐ傍らに爆弾が一個落ちて爆発したので、至る所のガラスが破れたり、又大きな土の塊が落ちてきたので、休息所の天井に大きな穴が一つあいておれり。その時二、三十人がゴルフをプレーしおりしが、中止し待避せしに、幸い人には被害が無しとの事なり」(東久邇宮日記)。
さらに日記には一二月三日の午後のプレー中に体験した空襲の様子が克明に記録されている。空襲警報が鳴ってクラブハウス脇の森のなかに待避すると、二時頃にB29の編隊が富士山の方からきた。そして中島飛行機方面と立川方面で爆発音と黒煙が目撃され、さらに最後の編隊は「私どもの真上に来り。ごうごうたるすさまじきプロペラの音をたてて東に去りしが、数発の爆弾がすさまじき音をして私共の数十米離れたる所にて爆発し、黒煙が高く上りたり。私共一同は地に伏したるが、余り大なる爆風も地の動きも感ぜざりき」(同前)。一方、日本軍の迎撃機や高射砲からの反撃もみることができたが、アメリカ機を撃ち落とすことができず、「一同大いに残念がり、憤慨」(同前)した。
東久邇宮の小金井通いは四五年二月一八日が最後となった。その日の日記には「池貝、立川、岩佐と昼食を共にしたる後、outを二回プレー」とあるが、イン・コースがすでに前年七月から陸軍経理学校に貸与され甘藷畑になっていたため、アウト・コースを二回まわったのである。その後二月二五日の神田空襲、そして三月一〇日の東京大空襲を皮切りに、焼夷弾(しょういだん)による夜間空襲が日本全土の主要都市に対しておこなわれるようになると、ゴルフ好きの宮様もさすがにゴルフどころではなくなった。
小金井カントリー倶楽部はその後何度も爆弾が着弾して被害を被るとともに、陸軍の部隊が練習場やクラブハウスを使用するなかでなんとか営業を続けたが、終戦が目前である八月一日からついに休場することになった。敗戦後も営業できずにいたところ、一二月に米軍がコースを接収し、修繕して米軍将兵のためのコースとして使用した。倶楽部の会員がプレーできるようになったのは講和条約の発効後であり、完全返還は一九五四年四月であった。