戦時中、東京産業大学(現一橋大学)小平校舎は電波兵器操作要員の訓練施設となっていたが、敗戦後、八月二九日になってようやく陸軍の接収が解除された。大学は「戦後問題委員会」で学園の再建についての検討を開始していたが、出征や勤労動員のために学生はほとんどおらず、戻ってきた学生も「虚脱状態」であったという(『一橋大学百二十年史』)。
ところが九月五日になって進駐軍の将校三名が来校して、大学に対し小平校舎からの即時退去を要求した。そして一二日、アメリカ進駐軍歩兵第一六連隊のウイリアム・マホネス大佐率いる二千名の将兵が小平校舎に進駐してきたのだった。なお同じ日、陸軍技術研究所にもアニス一等中尉率いる二五〇名が進駐している(『朝日新聞』一九四五年九月一四日)。小平町内で真っ先にこれらの場所が接収されたのは、電波兵器などの軍事技術の開発・運用に関係する施設だったことと関係があろう。なお歩兵第一六連隊は、九月三〇日に小平校舎を明け渡したので、一〇月八日から大学の講義が開始された。そのほか陸軍経理学校にはアメリカ進駐軍の工兵隊が一九四八年はじめまで駐屯した。
このように、小平における「占領」は、戦時開発による軍施設の接収に始まった。進駐軍は各地の旧軍施設や民間施設を接収して日本軍の武装解除を進めるとともに、そこを拠点として「非軍事化と民主化」を旗印とする占領政策を進めた。ただ、小平における旧軍施設は進駐軍の重要拠点となったわけではない。したがって小平の戦後復興とは、軍事に従属して地域社会の改変が進められた戦時開発の結果を前提としつつも、軍隊に依存しない地域づくりをしていくこと、いわば地域の「非軍事化」にほかならなかった。
一方、こうした地域づくりのリーダーとなるべき町政指導層の交代と地域社会の「民主化」を呼びかけたのは、青年層であった。新憲法の施行直前におこなわれる最初の地方首長・議会議員公選を目前にひかえ、一九四七年二月に小平町壮年連盟、農民組合、青年会の三団体が中心となって、郷土民主化運動が開始された。地方選挙を好機として、「街の徹底的民主化」をはかり、「特権階級や追放者の旧勢力温存のロボット的人物」を排除することを主張したのである(近現代編史料集③ No.三七六)。戦時開発の推進や地域社会の戦時体制化を下支えした地域の有力者層(「旧勢力」)に対し、それまで発言権を奪われてきた若者や小作・零細農民らが台頭して、町の将来について発言をはじめたのであった。こうした地域の「民主化」の動きも、戦時開発の清算であった。