住宅問題と人口増

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日本の敗戦は同時に、東アジア・太平洋地域に広大な版図を誇った大日本帝国の解体、すなわち植民地や事実上の植民地、および占領地の放棄を意味した。敗戦当時、アジア各地の戦地に三三〇万人の軍人・軍属がいたほか、台湾、朝鮮、満州など「外地」にくらす民間人がほぼ同数いた。前者が帰国することを復員といい、後者の場合を引き揚げというが、復員者・引揚者は一九四六(昭和二一)年末までにあわせて五〇〇万人を超えた。特に生活の根拠を外地に置いていたものが引き揚げた場合、敗戦後の荒廃と混乱のもとで、住居や安定した職業をみつけることは困難であった。また空襲で二一〇万戸が焼失したとされ、家屋を失った戦災者は膨大な数におよんでいた。こうして全国で四二〇万戸が不足していると推計されたように、敗戦直後の住宅難は深刻さをきわめていた。
 引揚者たちの住宅を求める切実さは、遊休施設を引揚者住宅にすることを求める住宅獲得闘争を先鋭化させた。一九四七年七月一九日、東京都引揚者団体連合会・国分寺更生会の代表五〇名が、旧陸軍技術研究所の一部建物を占拠し、当局との交渉の結果、四〇〇人を収容できる一一棟の建物を確保することに成功した(『社会・労働運動大年表』)。
 小平町でも帰還して帰農を希望するものや、家屋を失って農家に間借りをするものが多く流入していた。すなわち「外地引揚帰農者、国内戦災者にして一定の住宅を有せず農家倉庫等を借りて居住して居るもの、同居生活をして居るもの等一二六家族五二五名に達し居り」(「元陸軍用地附属施設(建物)払下認可申請書」近現代編史料集⑤ No.一二八)といった状況で、それに対応して小平町農業会は陸軍施設用地の払い下げを受けて、引揚者・戦災者のための住宅九六戸の建設を計画した。
 もちろんこうした住宅の絶対的な不足の状況のなかで、政府の住宅対策がなかったわけではない。一九四五年九月、罹災都市応急簡易住宅建設要綱が閣議決定された。罹災者の越冬対策として、国庫補助により「最モ簡素ニシテ且大量生産ニ適スル」簡易住宅三〇万戸を建設するとしたが、年内に建設されたのは四万三〇〇〇戸にすぎず「恐るべき不良住宅の集団建設事業」とさえいわれた(『日本労働年鑑』)。この政策の一環として建設が促進されたのが住宅営団の中宿住宅であった。この営団住宅は、もともと兵器補給廠小平分廠の従業者向け住宅として、一九四三年ごろから建設が進められていたが(近現代編史料集⑤ No.一一七)、何らかの事情で中断し、さきの住宅難対策のもとで四五年一二月から建設が再開された。その結果、六畳・三畳二間の八軒長屋四棟と、六畳・三畳・三畳の三間(九坪)の一戸建て二一六戸からなる団地が完成し、新築部分には四六年四月から入居が開始された(『小平町誌』)。また同じ頃、営団旭ヶ丘住宅も完成している。なお住宅営団は一九四六年末に解散したため、それらの住宅は四八年七月から分譲された。
 一方、一九四七年の鷹の台住宅(第一都営住宅)を嚆矢(こうし)として、小平に次々と都営住宅が建設された。その数は一九五四年までに一〇〇八戸におよんだ。この間(一九四七~五四年)の小平町全体の世帯数増加が二四八九世帯なので、都営住宅の建設が小平町の人口増に貢献したことは明らかである。

図5-2 第四都営住宅 1955年頃
小平市立図書館所蔵

 しかし、都営住宅建設にともなって人口が急増した多摩地域の自治体では、その弊害として財政難を訴える声があがっていた。かつて都営住宅建設は「町の発展のため」になるとして歓迎されていたのだが、一九五〇年前後になると「発展どころか負担が多くなってやりきれぬ」と忌避されるようになったという。なぜなら都営住宅建設による急激な人口増のおかげで、小中学校の増設などをはじめ、住民サービスや社会基盤整備のための負担が急膨張し、自治体財政を圧迫したからであった。そのため北多摩郡町村長会では「都営住宅と引揚寮からの通学児童五十人につき一教室分四十五万円の補助金を出してくれねば都営住宅はお断りだ」と都に陳情したのだった(近現代編史料集③ No.四七八)。都側は補助金額が少なく「焼け石に水」程度との批判に対しては、増額の努力はするが「急激に発展する大都市近郊の宿命でもあり理解して欲しい」という返答であった(近現代編史料集③ No.四八三)。