しかしながら陸軍経理学校の校舎や兵舎があった主要部分は進駐軍が駐屯していたため、もとの所有者に返還されず、また一九四八(昭和二三)年に進駐軍が撤退したのちも民間に払い下げられることなく、国家機関の用地に転用されることになった。東京地方警察学校は一九四七年一月、小川の旧東部国民勤労訓練所跡地で創立したが、翌年三月東京管区警察学校と改称されるとともに進駐軍撤退後の陸軍経理学校跡地に移転した(一九五四年に関東管区警察学校と改称)。ここでは関東甲信越地方を管区とし、初・中級幹部(警部補・巡査部長など)の候補者に対する教育訓練や、警部補以下の警察官に対する専科教養がおこなわれ、年間四四〇〇人もの警察官がここで学んだ。二か月程度の比較的短期の教育期間であるが、全寮制で厳格な規律のもとに集中的な教育がおこなわれるため、「師も生徒も十年の知己と化す」といわれた(東京管区警察学校『武蔵野』第二号)。
図5-3 関東管区警察学校正門 1955年
『郷土学習写真資料 昭和30年前後 教材用 小平第一小学校保存』No.1 小平市立図書館所蔵
一九四九年には旧陸軍経理学校の校舎を転用して、建設省地理調査所技術員養成所が発足した。これは陸軍参謀本部陸地測量部修技所(一八八八年)に始まった測量技術者教育機関の流れをくむもので、測地・測量や地図製作など地理に関連する高等技術の教育にあたっており、建設省だけでなく、林野庁や保安隊からも受講生を受け入れていたという(近現代編史料集③ No.四五九)。なお地理調査所技術員養成所は、のちに建設省建設研修所(一九五七年)へ、さらには建設大学校(一九六五年)となって、建設省所管行政にかかわる技術・事務担当職員の研修施設となった。
一方、日本の再軍備とともに、旧陸軍経理学校の一角は再び軍事施設となった。一九五〇年六月の朝鮮戦争勃発で在日米軍が朝鮮に出動したため、連合国軍最高司令官のマッカーサーは日本政府に対し、治安維持を任務とする組織の創設を命じ、同八月に警察予備隊が発足した。これは警察の範囲を超えた軍事組織であり、再軍備の第一歩であった。発足とともに警察予備隊員第一期募集に合格者した関東甲信越地方の一八〇〇名は、東京管区警察学校に集合して入隊し、ここから任地に移った。
一九五四年四月には保安隊久里浜駐屯地から、保安隊幹部学校と業務学校が旧陸軍経理学校跡地に移駐した。新築の鉄筋三階建二棟はそれぞれ両学校の本部・教室棟となり、宿舎は東京管区警察学校から譲り受けた建物を使い、旧経理学校の建物は改修されて講堂、酒保(売店)、倉庫などになった(近現代編史料集③ No.四六一)。同年七月に保安隊が陸上自衛隊に改組されると、そのまま陸上自衛隊小平駐屯地となり、引続き幹部学校と業務学校、さらには新設の調査学校が置かれた。一〇月二一日には小平駐屯地開庁式が開かれ、林保安庁長官、米軍顧問団モーアー准将らをはじめ、関係者や地元代表二〇〇名が招かれるとともに、小平在住の歌手松島詩子による演芸もおこなわれた(近現代編史料集③ No.四六四)。