国立武蔵療養所と身体障害者公共職業補導所

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過酷な戦場でのストレスが原因で心を病んだ傷痍(しょうい)軍人のための援護・療養施設としてはじまった傷痍軍人武蔵療養所は、敗戦後はGHQの指令により、軍事保護院から厚生省に移管されて国立武蔵療養所となり、広く国民に開かれた精神医療機関となった(『国立療養所史』)。敗戦直後は自主退所者が続出する一方、食料事情の悪化により死亡率も上昇し、さらに三度の火災に見舞われるなど苦難が続いたが、国立の精神医療施設の新設が進まないなかで現存施設の拡充が優先された結果、一九五五(昭和三〇)年現在、木造平屋建病棟に七〇〇床を抱えるまでになった。また院内に設置された附属准看護学院(一九五四年開設)において、精神科を専門とする看護者の養成がおこなわれた。こうして「斬新なる治療と看護」で精神科療養所のモデルとなった(『国立武蔵療養所年報 創立十周年記念号』)。

図5-4 国立武蔵療養所正門 1955年
『郷土学習写真資料』No.1

 しかし一般精神医療施設となったとはいえ、武蔵療養所には戦争中から長く療養を続けている傷痍軍人たちも多くおり、その数は一九五〇年で一八七人(入所者の四四・七%)、一九五五年で一五二人(同二二・三%)におよんだ。戦時には軍事援護制度のもとで傷痍軍人は無償で療養することができた。ところが敗戦後の民主化政策により軍事援護制度はすべて廃止されたため、政府は継続して療養を必要とする者に対し、未復員者給与法(一九四八年一二月改正)にいう「未復員者」とみなすことで、必要な療養費を支給することにした。そのため彼らのカルテには「未復員」の印が押され、のちに戦傷病者特別援護法(一九六三年)で傷痍軍人のための援護が受けられるようになってからも、彼らは「未復員」と呼ばれつづけた(『さすらいの〈未復員〉』)。家族との連絡が途絶えた者も多く、「精神的・社会的には依然として〈未復員〉状態のまま」療養生活を送り続けていたのであった。そのなかには旧植民地朝鮮で徴兵された朝鮮人元兵士もおり、彼が遺骨となって故国に帰還したときには、入所から六〇年が過ぎていた(『日本帝国陸軍と精神障害兵士』)。戦時とのつながりを持つ施設ではあったが、そのなかにいる彼らの存在は、戦後社会から忘れられたままであった。
 戦時労働力動員のための施設であった東部国民勤労訓練所は、一九四五年に東部職業補導所となった。一九四八(昭和二三)年にその建物・敷地は東京都の所有となり、一部は職業訓練事業を引き継いだ東京都多摩公共職業補導所(四九年発足、五八年に多摩職業訓練所と改称)となったが、それ以外の敷地・建物には身体の不自由な人たちのための自立支援施設が設立されることになった。四八年、東京都身体障害者公共職業補導所(のち身体障害者職業訓練所)が創立し、それを修了した者のための附属作業所(のち多摩共同作業所)も翌年開設された。また五〇年には肢体不自由児療育施設である財団法人多摩緑成会整育園が開設されると、翌年には都立光明小中学校多摩分校(のち都立光明養護学校多摩分校)が開校した。なお緑成会には附属病院や保育園も併設されていた。
 加えてこれら心身に障害を抱えた人びとのための施設群のまわりには、大きな病院が次々と開院した。社会福祉法人療養所緑風荘(一九五一年創立)という結核専門の療養所と、地域に根ざした精神医療を目指した医療法人松見病院(一九五五年移転開院)は、いずれも国立武蔵療養所の隣接地に開院した。また、社会福祉法人南台病院(一九五七年創立)が開院し、自活できない障害者のための保護施設である黎明寮を併設した。