第一に、戦前の施設との連続性が強いことである。小平の戦時開発地の再出発は、大まかにいって次のようなパターンに整理できる。まず①〈非軍事化〉、すなわち非軍事の公共施設への転用のパターンであるが、厚生行政にかかわる東部国民勤労訓練所と傷痍軍人武蔵療養所は、東京都心身障害者公共職業補導所や国立武蔵療養所となり、陸軍経理学校という軍学校跡地が、公務員の教育研修施設である東京管区警察学校や建設省地理調査所技術員養成所になった。それぞれの施設のもつ意味や目的は大きく変わったとしても、教育・研究施設ないしは医療福祉施設という点では大きな変化はなかった。次に②〈農地への再転換〉、すなわち旧地主や引揚者など開拓希望者に農地として払い下げられたパターンである。これは陸軍経理学校練兵場や兵器補給廠小平分廠の跡地が該当するが、これは土地利用方法が接収前に戻ったことになる。また③〈再軍事化〉、すなわち自衛隊の用地として再利用されたパターンは、陸軍経理学校跡の一部が陸上自衛隊小平駐屯地になったことだが、これは自衛官の幹部教育施設だったわけで①と重なるといえる。特に①③のパターンに見られる戦時開発地の清算と再出発のあり方は、利用方法において戦前と連続しており、したがって地域の激変をもたらすものでなかったといえよう。
図5-5 職業補導所入口 1955年頃
『郷土学習写真資料』No.1
逆に連続性のない④〈軍民転換〉、すなわち戦時の利用法とは全く異なる民生部門の施設に転換するパターンは、復興期にはみられず、高度成長期になって兵器補給廠小平分廠跡地のブリヂストンタイヤ東京工場(一九六〇年)と陸軍経理学校跡地の住宅公団小平団地(一九六五年)の誕生まで待たねばならなかった。これらは大規模工場と団地という高度経済成長期の郊外開発を象徴する施設であり、地域に大きな影響を与えたことはいうまでもない。
第二に、地域経済に与えた影響が小さかったことである。戦時開発地の再出発は「会社、工場など町財政をうるおす〝ドル箱的存在〟が何一つなく戦時中の陸軍技術研究所や経理学校、傷痍軍人療養所、国民勤労訓練所もそれぞれ警察学校や職業訓練所などにそのまま衣替えして〝貧乏病〟のクスリには一向ならない」(「近現代編史料集③ No.三八六)と指摘されたように、必ずしも大幅な税収増や雇用増といった経済効果に直接結びつく施設とはいえなかった。ただ、そもそも小平の戦時開発は、地域の景観や生業に影響を与えたが、地域の経済・社会は、軍事施設や軍需工場の存在を不可欠とするほどには依存していなかった。したがって敗戦にともなう軍事施設の廃止と施設の転用が、地域経済に与えた影響はそれほど大きなものにはならなかった。
第三に、それらの施設は地域に与える経済効果が少なかったが、しかしながら施設の存在自体は生活環境を破壊するようなものではなく、むしろ地域の良好な環境の維持に結びつき、医療・福祉・教育施設の立地する「田園郊外」というイメージを地域に付与するものであった。このことは長期的にみて、さまざまな意味で、小平の財産となったといえよう。