小平町における被買収地主の多くは、五反未満の零細な土地を所有する不在の個人地主であった。個人地主のなかには、農地を住宅用として購入し、住宅建設までの間、小作地として町内の農民に耕作させている事例が珍しくなかった。そうした性格をもつ土地が農地買収の対象になったことは、零細とはいえ、かけがえのない資産として保有していた地主にとって大きな不安を抱えることを意味した。以下に紹介するのは、戦前、上海紡織株式会社の社員として外地に渡り、敗戦後は、都内に住む兄一家を頼って引揚げてきた不在地主(小平町に畑一反二畝所有)の事例である。彼は「停年も間近になった昭和十五年の三月頃将来此の地に家を建てて住」む予定で「郊外土地合資会社」から「分譲地」を購入していた。その後敗戦により、「一物も残らず引揚げた我々社員に対し一文の救済金さへ出せぬ悲惨な状態」で「収入の途も絶えて売り喰ひの生活を続け」ることになった。そして彼は、小平町の「所有地は今の私にとっては誠に大切な唯一の残された生活の根拠であります」と、買収免除を強く訴えたのである(一九四七年五月日不詳)。敗戦後の混乱期に多かった海外引揚者が生活困窮という事態に直面しただけでなく、被買収地主とされたことで将来への展望に大きな不安を抱えるようになった様子が伝わってくる。
こうした地主の所有地買収をめぐっては、後に買収取消・登記抹消請求など裁判に発展した事例も僅かながら確認できる。ここでは、買収対象地が農地と宅地の何れに該当するのか、小作契約の有無などが争点になった(経済課農地係「昭和三二年度重要案件綴」)。ただし、それはあくまで例外的なものであり、農地買収をめぐる問題の大半は農地委員会の範囲内で解決されている。一九四七(昭和二二)年一月から五〇年七月までの期間に公開のうえ開催された五二回に及ぶ委員会での慎重な審議がそのことをよく物語っている。
小平町農地委員会に寄せられた陳情書のなかには、上記以外に、都市計画の遂行が農地紛争に発展した事例を確認することができる。農民代表による小平霊園拡張反対の陳情である。小平霊園は、一九四四年、東京都の都市計画事業として開始されたが、戦争の激化によって工事が中断したため、戦後になって拡張を含めた事業計画が本格化する。対象地は西武線小平駅付近の緑地三〇町歩と決定し、四七年以降、用地買収・測量・土地造成が急速に進められた(近現代編史料集③ No.四八五)。四八年三月一八日、大沼田新田の農民代表一四名が拡張工事反対の陳情書を提出した。「増産に増産を重ねると雖も尚不足を来し、全く一寸の土地すら作付して之を役立たせねばならないこのときに際して、農耕地を潰すとは吾我農民には想像が付きません」というように、敗戦直後に焦眉(しょうび)の課題となった食糧増産を担う耕作者の観点から、霊園による農地買上に反対の姿勢を示したのである(経済課農地係「昭和二三年度議事録綴」)。農地に対する農民の強い意志は、「たとひ広大な代替地巨額の代金を以て償ふとも断じて反対」という言葉にあらわれていよう。こののち、小平霊園の拡張をめぐる農地紛争は、東京都・霊園側と農民・農地委員会側の間で解決に向けた協議がなされることになった。小平町のような都市近郊地においては、農地改革と都市計画の間で農地利用をめぐる激しい競合が起こっていたのである。
図5-7 小平霊園正面入口 1955年頃
『郷土学習写真資料』No.1