一九五〇年代のはじめ、大麦は小麦に比べて改良が遅れている傾向にあり、小平町でも旧品種が作付されていた。そこで農業改良普及員の指導のもと、一九五一(昭和二六)年、小川新田一七六番地に展示圃場(ほじょう)を設置する。大麦では北関東皮三号・関東五号・関東皮六号・四国岡山・金玉、裸麦では愛媛二号・農林一号・三重三九号・赤神力といった改良原種を移植して、農家に従来の作付品種との比較をしてもらった。こうした試みにも支えられて、大麦は一九五〇年代をつうじて小平町のなかで最大の作付面積を有する作物であった。
図5-8 麦畑での農作業 1947~48年頃
小平市立図書館所蔵
さつまいもも一九五〇年代のはじめ、小平町の特産品として知れ渡っていた。小平町農業協同組合では、それまで「東京いも」として出荷していたところを「小平イモ」と名付け、東北方面への販路拡大に力を入れた(近現代編史料集③ No.三四五)。こうした名声の背景には、全国的に多収穫の記録をもち「藷作りの名人」と称された関根惣八、鈴木重雄といった篤農家の努力や技術普及活動があった。
図5-9 さつまいもの宣伝写真 1950年9月27日
小平市立図書館所蔵
大麦やさつまいもは戦前・戦中より小平で作付けされてきたものであるが、戦後、一気に特産化したものがすいかである。都内各地で好評を博してきたのを機に、小平町役場では一九五一年ポスターを作成して、青果市場・生花店に配布した(『小平町報』第一号)。また同年八月には、すいかを主とする夏蔬菜の品評会・試食会を催して宣伝に努めている。新大和系を主体に、都系旭大和、一代雑種の新都、富研の優良品が一八六点も出品された(同前 第二号)。こうした宣伝の一方で、町役場と農業協同組合は品質や出荷方法にまだ改善の余地が残ると考え、「小平西瓜栽培指針」を作成して播種期を前に各農家へ配布している。加えて町役場と農協の係員、農業改良普及員は町内各地区をまわり、農家の人々と座談会を開いて研究を重ねていった(同前 第二号、近現代編史料集③ No.三四八/No.三五三)。
図5-10 小平すいか宣伝ポスター1951年
『小平町報』第1号
すいかは夏の青果市場を左右するほど人気があって増産を奨励されていたが、連作がきかないうえ、低温、豪雨、多雨といった天候不順、そして病虫害にも弱く、不作に陥りやすい「水物」であった。小平町でも一九五二(昭和二七)年から三年間、不作が続いたのち、一九五〇年代後半から徐々に作付面積を減らしていった。
一九五〇年代後半、農家経営を安定させるため養豚が積極的に導入されていく。町内飼育頭数は一九五〇年に三九〇頭だったが、五五年に六六六頭、六〇年に九九五頭と増加している(「農林水産業調査報告簿」・『東京都統計年鑑』)。小平町では、一九五六年に日本種豚協会登録のヨークシャー優良品種の種豚を購入し、五八年には種おす豚を二頭、種めす豚二七頭を有した。
飼育方法について『小平町報』第四一号(一九五九年一月一〇日)の「農業普及員だより」では、従来のような「うまくいったら繁殖用に、失敗したら肉豚として『つぶし』に出す」というような考え方ではなく、最初から繁殖用飼育と肉豚用飼育とに分けて考えるように、農家へ注意をうながしている。
こうしたさつまいも・すいかの特産化、養豚の積極的な導入の動きは、主食となる作物の生産に大きな比重を置きつつ、都市向け農業への移行と農業多角化を進めて農家経営の安定を目指すという昭和戦前・戦時期からみられた小平の農業の特徴を引き継ぎ、さらに展開させる側面をもっていた(第四章第一節4参照)。これまでは篤農家が先頭に立って農業の改良を推し進めてきたが、それに小平町、農業協同組合、農業改良普及員の品種改良や販路拡大に向けた活動が加わって、小平の農産物の声価は高まっていった。また、すいかをはじめとする蔬菜生産、養豚といった都市向け農業がさらにさかんとなった。