花卉研究会と即売

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一九五〇年頃の小平の農業は麦とさつまいも生産が主体で、それだけでは将来の見通しに不安を感じた一部の農家では、花卉(かき)園芸の生産を積極的に取り入れる動きがみられた。一九四九(昭和二四)年、佐藤俊一が自宅に作った三〇坪のボイラー温室に、藤森正二、野中栄寿、比留間栄一の三人が集まって話し合いをしていたことに端を発して、花卉研究会がつくられる。その後の五年間で計一七人が参加するようになった。
 会では、小平が花卉栽培の産地となることを目指した。そこで、生産物を取りまとめる仲買商が出てきて、花卉生産農家を買いたたかないようにするため、自分たちでつくったものを自分たちで売る「即売」に力を入れていく。
 即売をはじめたのは、一九五四年に小平中学校(現小平第一中学校)でおこなわれた第四回小平町民祭産業展覧会であった。商品が菊、水仙、フリージアといったあまり日持ちのしない切り花が中心であったこと、即売という販売方法が当時まだ都内でも珍しく、集客もままならなかったことなどから、すぐに大きな成果をあげることはできなかった。しかし産業展覧会のほか、円成院門前や小平駅前などで地道な即売活動を続けていく。春のお彼岸の際に多くの人出に湧く小平霊園での即売を、東京都に何度か掛け合うことで認めてもらい、多くの売り上げを得るなど、徐々に成果をあげるようになった。

図5-12 小平町産業展覧会での即売風景(小平第一中学校にて) 1959年11月22日
小平市立図書館所蔵

 花卉生産に加えて鉢物、株物、植木、盆栽といった即売向きの商品が、一九五五年頃から盛んに生産されるようになると、一九五六年に会の名称を小平町花卉園芸研究会に変更した。