一九四六(昭和二一)年、恵泉女子農芸専門学校(一九四七年三月に恵泉女学園専門学校農芸科、一九五〇年四月に恵泉女学園短期大学園芸科)が世田谷区船橋町から旧陸軍経理学校東校舎跡地に移転してくる。創立者の河井道は、一九二九年の恵泉女学園設立時より園芸教育を重視して、将来、女子の農園芸専門カレッジの設立を夢見ていた。戦局も悪化の一途をたどる一九四四年九月、男性労働力不足を補いながら食糧を確保するために、農村における女子労働力の活用と女性指導者の養成が求められた時代背景もあって、文部省に恵泉女子農芸専門学校の設立を申請し、一九四五年三月に認可を受けた。
入学案内には、①キリスト教の信仰にもとづいた精神教育の重視、②農園芸に関する知識、技量の習得、③女学校の園芸教育担当者の育成、④家庭生活へ科学的専門知識の取り入れ、⑤都会、農村における農園芸の指導者の育成という五つの設立趣旨が示されている。こうした教育方針のもと、一学年三〇名程度の比較的少人数で、全寮制による女子農芸専門学校が小平の地に開かれた。
荒廃した旧陸軍経理学校跡地での学校生活は、「お化け屋敷の様な土地を開墾」(近現代編史料集⑤ No.一五六)することからはじまった。譲り受けた建物四棟は、天井や床下がはがれ落ちた箇所も多く、周囲は防空壕(ごう)が掘られたままで雑草が生い茂る状況であった。こうした施設を修復して教室や寮、畑や花壇にしていくため、教員、女子学生ともに苦労は絶えなかった。
こうした環境のなか、全寮制で農園芸を学び、ともに小平でくらす女学生は、地域の人びととかかわりをもって、何か貢献できないかと考えるようになる。一九四七年一一月に「恵泉小平日曜学校」を開き、農作業に忙しい農家の婦人の負担を少しでも減らせるように、子どもたちを預かった。初回の日曜学校には、四〇名の子どもたちが集まった(近現代編史料集⑤ No.一五八)。一九五五年に一旦は休止するも、翌年には「土曜学校」として再開し、二〇〇名近い子どもたちが集まった(近現代編史料集⑤ No.一五九)。「歌の稽古、御話、スライド等」の楽しい催しが用意された。