米軍基地と社会問題

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敗戦は、軍事施設の解体・転用を強いたが、すぐさま軍事施設が消え去ることはなかった。なかでも立川飛行場は米軍に接収されて米軍基地に転用され、立川は軍都から基地の町へと変わる。一九五一(昭和二六)年九月には対日講和条約と日米安全保障条約が調印され、翌五二年四月には足かけ八年の長きにわたる占領をぬけだし、日本は独立した。その一方で、朝鮮戦争で日本は米軍の重要な軍事拠点、そして、兵站(へいたん)基地としての役割を果たした。そのような状況のなかでの一九五三年の米軍輸送機グローブマスターの墜落事故であった。わが国は独立したといえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった。
 立川基地周辺では、米軍人相手に春をひさぐ「パンパン」と呼ばれた「夜の女」が集まり、最高時の一九五二年には三〇〇〇人にもおよび、府中や福生をはじめとする多摩地区全体では七〇〇〇名ともいわれた(近現代編史料集③ No.四五五)。風紀とともに治安は乱れ、事件が多発した。「基地の街はいやです」(近現代編史料集③ No.四五六)という中学生の作文が「児童福祉期間」中に展示されたのは、一九五八年五月のことであった。その叫びもとどかず、米軍の駐留は続いた。
 小平町でも、米軍車輌の通行のための五日市街道沿いの小金井桜の伐採問題(一九五五年二月)(近現代編史料集③ No.六五六)、小川新田で七歳男児が米軍乗用車にはねられた交通事故(一九五七年二月)(「米軍機墜落事故関係書類」)、小川で米兵乗用車によるひき逃げ疑惑事件(一九五七年一二月)(近現代編史料集③ No.六六六)など、米軍関連の事件が続いた。