原水爆禁止運動

407 ~ 407 / 861ページ
一九五四(昭和二九)年三月、太平洋ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本のマグロ漁船第五福竜丸が「死の灰」をあび、乗組員全員二三人が被爆した事件が起きた。この事件に対して杉並区の婦人団体が声をあげたことをきっかけに、その後、原水爆禁止運動は燎原(りょうげん)の火のごとく全国に広まっていった。
 小平でも一橋大学生や町民有志によって「原水爆禁止懇談会」が一九五四年六月二六日に開かれる(『毎日新聞』都下版 一九五四年六月二四日)。だが、町民に原水禁の運動は、浸透するまでには至らなかった(『一橋新聞』一九五四年六月三〇日)。そこで学生側は「小平町を住みよくする会」を設立し、まず住民のなかに地盤をつくるために子供文化会を結成し、「週に一度幻灯会、お話の会〔中略〕歌う会とか演劇とか紙芝居とか勉強の指導」などの地道な活動を実施したのである(『一橋新聞』一九五四年九月二〇日)。
 一九五八年八月一二日からおこなわれる第四回原水禁世界大会を前に、原水爆禁止多摩連絡協議会の面々は、各市町村内で街頭募金や講演会、映画会などを開き、小平町の有志は講演会と幻灯スライド会を計画した(『毎日新聞』都下毎日 一九五八年七月二〇日)。

図5-15 原水爆禁止小平町民大会のようす 1960年8月4日
小平市立図書館所蔵