小平町議会における核実験禁止要望の決議

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砂川・立川基地反対闘争を担い、運動を展開した中心人物の一人である宮岡政雄は、この運動を二つの点から総括している。一つは「土地を手放さないという住民運動」の側面、もう一つは、安保条約は違憲であるという「平和運動」の側面からである(『砂川闘争の記録』)。前者は、小平町においては、一九五四(昭和二九)、五五年に生じた「三町合併問題」や、一九五八年の「首都圏整備法問題」における農民層の反対運動に含まれた土地に対する意識と連動する側面があった。
 後者の「平和運動」は、小平町の場合、小川への米軍輸送機の墜落事件を契機に生じた町民の意識や津田塾大学生の平和への意識となってあらわれ、その後、一九六一年九月二六日、小平町議会が米ソに対する核実験禁止要望案を賛成多数で決議し、両国首脳に送付する動きにつながっている。要望案を説明した渓義昌議員によれば、小平町には、一九五九年一二月の調査として一一名の被爆者が存在しており、毎年、原水爆禁止運動の予算を五万円組んでいることからすれば、「真の人類愛」として、米ソ両方の首脳に対して「核実験はやめてくださいという請願」をおこなうことは当然ではないかと述べている(「昭和三十四年度 小平町議会々議録」)。討論の結果、決議案は賛成多数で決定している。その決議文には「最初に原子核爆弾の不幸な洗礼を受けたのはわれわれ日本人です」からはじまり、最後は「『核実験はやめてください』犠牲者をもつ町として核実験禁止を切に要望します」と結ばれていた(『小平町報』第七八号)。