水道・ごみ収集事業の町営化

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小平町の各地域では、生活用水として深井戸を利用していることが多かった。しかし、坂下、中宿地区では深井戸に恵まれなかったため、一九四九(昭和二四)年に旧兵器補給廠小平分廠跡の給水施設の利用を大蔵省東京財務局に申請して、認可を受けた。一九五三年、利用地区の自治会長が中心となって小川水利協会を組織して給水事業を取り仕切ってきたが、周辺地域の人口増加と、水源地にブリヂストンタイヤが進出してくることが決まったことから、水利協会は一九五八年に水道事業の町営移管の陳情書を町議会に提出した。
 都市的施設の充実を推進する町議会はこれを受け入れ、一九五九年三月に給水条例を制定、六月東京都知事宛てに事業認可及び起債許可申請を提出した。町営水道事業の開始時の給水人口は二九九〇人であったが、一万人の給水能力をもつ施設を目指して整備が進められた。
 一九五九年度の大きな事業として、ごみの町営収集と焼却場の建設が計画される。一日五千貫(五万人分の想定量)のごみ処理が可能な炉を有した焼却場の建設費として、九一九万五千円が計上された。
 その六年前の一九五三年、武蔵野市が野中新田与右衛門組の一部土地を買収して焼却場をつくろうとしたことがあった。地域住民からは「塵芥焼却所設置反対請願書」が提出された。町議会は七月に臨時会を開き、自市から出たごみは自市内で処理することが道義であること、予定地が武蔵野自然公園指定区域であること、人家に隣接しすぎていることに加え、湿地帯で出水の恐れもあって適地でないこと、そして予定地は農地改革による解放農地でその意義に反することなどを理由に、武蔵野市からの協力要請を受けていたにもかかわらず、設置反対の請願書を採択した。また審議のなか、今後小平町でもごみ処理について研究していく必要性が訴えられた。
 焼却場の用地は一九五八年に西中島地区に決定し、五九年六月より一部の地域で町営のごみ収集が開始された。町役場に清掃用ダンプカー(ごみ収集車)が購入され、準備が整えられていった。ごみ収集を希望する家庭は、町役場の清掃係に申し込み、各自ゴミ箱の用意が義務づけられた。収集回数は月四回で、料金は普通世帯で一か月三〇円、月の最終収集回にごみ処理券で支払うこととなった。こうして一九六〇年一二月、町営のゴミ焼却場が落成する。
 
表5-9 町内ごみ処理区域
▽直営(町役場)
小平学園東区小川山家
萩山住宅下宿都営
双葉会住宅やよい会住宅
朝富士会住宅水道建売住宅
いづみ会住宅第二十一都営
花小金井(西側のみ)自衛隊官舎
防衛庁共済住宅旭ヶ丘みずほ住宅
▽小平清掃
学園西茜台都営
鷹の街道二種都営第七都営
山王住宅松ヶ丘都営
緑ヶ丘都営第二第三鷹の街道外住宅
鷹の台住宅電電公社住宅
▽加藤商事
第十七都営第十八都営
小平駅東電裏都営第二第九都営
中宿旭町
第十四都営第二十都営
富士見住宅鈴木上
西中島都営小川本町
▽高杉組
二ツ塚都営向山
第二十二都営第二十四都営
第二十八都営日立桜上水
▽常盤組
花小金井東部光ヶ丘住宅
▽吉田組
第二野中親和会秀峰会
第五野中住宅第二大沼田住宅
第四都営 
(出典)『小平町報』第45号、1959年7月1日より作成。