町村合併問題の発生

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一九五五(昭和三〇)年は、日本の政治にとって、大きな変わり目であった。左右社会党の合同、自由党と民主党との保守合同があり、社会党と自由民主党という保革二大政党による政治がはじまった年でもある。目を外に向けると、米ソ対立の冷戦体制が固定化されつつあった。三多摩地方も変貌の嵐にさらされていた。なかでも軍都立川を中心に戦中期に発展してきた一帯は、都心のベッドタウンとしての開発が進み、人口が急増していた。
 この転換期に小平町が直面したのが町村合併問題であった。それは、直接には一九五三年一〇月に施行された町村合併促進法からはじまった。この法律は、地方自治の強化と行政力を向上させることなどを目的にしたもので、公布とともに全国的規模で町村合併が進んでいった。
 北多摩郡下の市町村では、まず区制を施き、二三区内に編入ないし合流する運動が発生した。一九五三年一一月に武蔵野市が、近隣の三鷹・小金井・田無・保谷との二市三町合併を進める「大武蔵野市(区)」案を提起したのが、それであった(『東京都町村合併誌』)。これが頓挫すると、小金井町は一九五四年六月に一市五町案(武蔵野市と小金井町・国分寺町・小平町・田無町・保谷町の五町を合併させるもの)を提示し、また田無町は武蔵野市・三鷹市・小平町・保谷町との大合併を目指す運動をすすめた(同前)。