小平町では、小平・小金井・国分寺・東村山の四町合併案を示したが、東村山町議会の反対で断念することになる(『朝日新聞』都下版 一九五四年九月一二日)。そこで一九五四(昭和二九)年九月一三日、小平町議会は、小平・国分寺・小金井の三町合併による市制施行を目指すことになった。そして三町合併促進協議会事務局を立ち上げ、選挙区の設定や施設の統合などの草案(「市となるための要件を証する書類」(近現代編史料集⑤ No.一六二)を作成したが、「三町間の感情のわだかまりは、ほとんどみられない」と、町民感情については問題がないとの観測であった。
表5-7をみると、小平町は小金井・国分寺町に比して面積が広いが、予算歳入額は少なかった。このような条件下で小金井と国分寺は、三町合併を了承し、推し進めることになったのである(近現代編史料集③ No.四〇八)。一九五五年一月一四日、小平・小金井・国分寺の三町合併促進協議会(議長小川睦郎小平町長)は初会合を開き、以後連日のように協議を重ね、新市計画案を練っていった。そして庁舎場所や新市名(「北多摩市」)、選挙区の区割、国民健康保険、塵介、し尿、保健所、保育所などについても話し合われた。
また、町当局の住民に対する広報・周知活動も滞りなくおこなわれ、『小平町報』では『特輯号』(一九五四年九月五日)からはじまり、第一九号(一九五四年一一月五日)、第二〇号(一九五四年一二月二〇日)、第二一号(一九五五年二月一二日)と毎回、「町村合併問題」を特集し、合併による「損失と利益」などを多角的に提示した。その結果、小平町がおこなった「三町合併に関する住民の意見」調査では、賛成七一七、反対一三五、その他一六四であった(「町村合併関係(2)」)。