だが、一九五五(昭和三〇)年一月一二日に開かれた小平町議会主催の「町民の声をきく会」では、逆に反対論が続出した。小川新田、鈴木新田、野中新田、大沼田新田など田無町に近い地区の住民からは三町合併は「地理的条件から小平町は歩が悪い。田無、久留米、東村山、小平の四町村が合併すべきだ」との地域優先主義が提起された。反対に国分寺に隣接する上鈴木地区の住民は三町合併に賛成で、中央線側住民と西武新宿線側住民との対立が浮き彫りになり、双方の意見は平行線をたどった(近現代編史料集③ No.四一四〈一九五五年一月一四日〉)。
なかでも農家出身議員の反対は強硬であった。「時期尚早・研究不足」を唱え、一九五五年一月中旬に「三町合併反対期成同盟」を結成し、座長に斎藤佐市、会長に前町議西海一郎、副会長に小川・小川新田・大沼田・野中・鈴木・野中新田の六地区から一名ずつを選び、反対運動をより強力に推し進めることになった(近現代編史料集③ No.四一九)。また反対の陳情書や懇願書も、鈴木新田・野中新田・大沼田新田(一月一八日)や小川地区(一月二二日)、さらにはその一番地区(一月二五日)や農業技術研究会第一支部(小川地区)有志(一月二五日)などによって、町長宛に提出された(近現代編史料集⑤ No.一六四)。
この小平町内の強硬な反対運動は、他二町にも影響をおよぼさないわけにはいかなかった。当初、国分寺町では農家出身議員が反対したものの「他はほとんど委員会決定に賛意」をあらわしていた(近現代編史料集③ No.四一九)。だが、小平町の反対運動に刺激され、一月三〇日には各集落代表者が小平町議会に乱入し、合併反対を押しつけた(近現代編史料集③ No.四二〇)。
小金井町では、集落ごとに説明会を開いていたが、強硬な反対意見は少なかった。そのうえ住民の関心が盛り上がらず、町長をはじめ町関係者が七、八人出席する中、住民側は五人ほどと非常に少なかった。しかしながら潜在的には、「二十三区に比べて武蔵野・三鷹は一〇年遅れている、さらに西はそこから一〇年遅れている」といわれた「西や北の町との合併には抵抗があった」のである(『小金井市議会史』)。