町誌と小平町史研究会

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都市化の勢いが加速しはじめ、小平をめぐる町村合併論議が起ころうとする頃、地域社会の大きな変化が予期されるなか、町誌編さん事業が起ちあがった。事業は一九五四(昭和二九)年三月に着手し、完成したのは五年の歳月を経た一九五九年三月であった。A5版、一四〇〇頁余りの大著で、四編に分けられ、各編は「江戸時代の小平」(計三三三頁)、「近代の小平」(計一二三頁)、「現代の小平」(計六一八頁)、「自然と民俗」(計二四〇頁)、そのほかに「将来の小平」「小平町年表」などとなっている。ページ数からみれば、現代と近世に重点が置かれていることがわかる。また特徴的なのが「第四編 自然と民俗」で、当時「自然」を加える市町村誌(史)は少なく、また民俗領域を本格的に加えたものもめずらしかった。そのうえ民俗領域は、第四編のみでなく、第三編の「第九章 社会組織」や「第十章 住宅」にもおよんでいる。しかも柳田国男の民俗学でなく、泉靖一や蒲生正男、川田順造などの社会・文化人類学によるものであった。さらに共同調査・共同執筆した点でも民俗編としては先駆的で画期的なものであった。
 編さん委員や編集委員には地元の郷土史家以外に明治大学をはじめ外部から多数の研究者を集めており、この点でも『小平町誌』は先進的であった。
 この町誌編さんのきっかけは、一九五一年の早春に小川愛次郎(一八七六~一九七一)宅に江戸時代の名主文書が埋もれていることを知った伊藤好一(明治高校)が、同学の宗京奨三(明治大学)と木村礎(同)らを誘い、来訪したことにある(「あとがき」『小平町誌』)。その後、学生(明治大学文学部・明治高校・明治中学校生を含む)なども加え、調査を積み重ね、目録や史料集を作成する段階にまで達した。そこで小川家当主の愛次郎が、町制施行一〇周年にあたることもあり、町誌編さんを町長小川睦郎に進言し、町議会の賛同をえて、一九五四年三月から正式にはじまった。
 調査は、全体を四班に分けておこなわれた。歴史班(調査担当・宗京・木村・伊藤など)、地理班(渡辺操・松田孝・内田実など)、社会学班(泉靖一・蒲生正男・大給近達など)、建築班(徳永勇雄・浦良一など)であった。多数の学生が動員され、合宿調査での文書整理・解読、アンケート調査、古老からの聞き取りなどが精力的におこなわれた。
 そのほか同時期に進行していた小平町内の小中学校教員による小平教職員協議会委員会の活動も見逃すわけにはいかない。彼らは、戦後新しく導入された民主主義を担う教科として導入された社会科のために地元郷土史家(土士田弥一など)と接触し、「小平町史研究会」を一九五一年六月四日に立ち上げた。そして小平の歴史を教材化するために小川愛次郎宅(一九五一年七月二一日)などで研究会を開き、郷土史年表などをつくり(一九五二年六月)、授業に生かした(『会誌』第一号)。この教員の活動も『小平町誌』編さんには欠かせないもので、会員の伊藤小作(小平第一中学校)や小貫隼男(小平第一小学校)、生原肇(小平第一小学校)、近内信輝(小平第四小学校)らが町誌編纂委員に加わった。
 
表5-10 近隣自治体史における民俗分野の動向
 書名刊行年月主な監修・編者民俗分野の調査・執筆担当者
杉並区杉並区史1955年3月柳田国男瀬川清子柳田門下の民俗学者
小平町小平町誌1959年3月木村礎・伊藤好一・泉靖一蒲生正男・大給近達・川田順造・田代明徳・須江ひろ子・原忠彦ほか明治大学・東京大学などの社会・文化人類学者
八王子市八王子市史1963年3月真上隆俊佐々木内蔵助ほか地元の研究者
大和町大和町史1963年11月伊藤好一・水野祐---民俗編なし
立川市立川市史1969年1月水野祐鎌田久子柳田門下の成城大学の民俗学者
武蔵野市武蔵野市史1970年3月大場磐雄・児玉幸多・関島久坪井洋文國學院大学の民俗学者