大きな工場や事業所が進出した背景には、小平町の積極的な工場誘致の姿勢があった。工業誘致について小平町議会で本格的に議論されはじめたのは、一九五五(昭和三〇)年のことである。
町議会都市化対策特別委員会は、一九五五年一二月の第一〇回定例会で元陸軍兵器補給廠小平分廠跡地を中心とした地区(約六万坪)の今後のあり方について協議し、報告をおこなっている。国有地である分廠跡地(八二万五〇〇m2)の一部は、営農希望者に開拓農地として貸し付けられたのち、一九五三年に耕作者に売り渡されていた。今後、この地区の住宅地化が進むことを想定しつつ、「町の財源及び子弟の就職の為に招致を熱望するものは会社、工場の建設」(「会議録 昭和三十年」)であると提案している。ただ、誘致する会社、工場が「半官半民のような非営利的なものについては問題ないが、私企業については〔中略〕町の将来の発展に寄与するものであれば或は許可されるのではないか」(同前)と留保を付した。
一九五七年になると、町の工場誘致の姿勢はより鮮明になる。三月の第二回定例会の小川睦郎町長の施政方針では、「豊富な自己財源の確保の為には、工場、会社の誘致」が必要であり、「この事に関しては日夜心を砕き、着々工場誘致を考えております」(「会議録 昭和三十二年」)と発言している。その後、分廠跡地にブリヂストンタイヤ株式会社の新工場が建設されることに決まるが、翌年三月の第一回定例会で小川町長は、この工場誘致への熱の入れ方を「昨年度は、BS(ブリヂストンタイヤ――引用者注)の問題に生命を賭してやつておつた」と表現している(「会議録 昭和三十三年」)。