小平でまとまった土地が売りに出される話は当初、荻窪の富士精密工業(のちのプリンス自動車工業)に持ち込まれた。同社の会長であり、ブリヂストンタイヤ社長であった石橋正二郎は、むしろタイヤ工場の用地として興味を示し、交渉に入ることになった。ブリヂストンタイヤでは、数年前より自動車タイヤの需要地であって、海外輸出の利便性も高い東京への工場進出を検討していた。
ただ、売りに出される五万坪(その後建設される工場の北側三分の一)では新工場用地として狭小であったため、石橋は加えて一〇万坪(工場南側)の取得を望んだ。そこで売却に応じる地主をさらに募る必要があり、小川睦郎町長を仲介者として話が進められた。土地提供者に対して、小平町より報償金もだされることになった。
結果、計九八人の地主が土地の売却に応じ、一六・五万坪の土地が工場用地になった。値段交渉は坪六〇〇円からはじめられ、一九五七年六月に坪一〇〇〇円で話が落ち着いた。土地の引き渡しは、翌年七月、麦の刈り入れを待っておこなわれることとなった。
企業と地主との間では「売りましょう」「買いましょう」で決めることができたが、「農地転用」には次なる課題が存在した。首都圏整備法にもとづいて、工場の新設には非常に厳しい制限が設けられていた。また、一五万坪を超える大きな農地の転用は、東京都では前例がなかったようで、そのことも足かせとなった。東京都農林局と首都圏整備委員会を相手にブリヂストンタイヤの半年におよぶ交渉の甲斐があって、一九五七年一二月二八日に農林大臣の農地転用の許可を得た。翌日、地主に土地代金を支払い、土地の売買が成立した。
一九六〇年六月の新工場竣工式に来賓として出席した東京通産局長は、都心に近い三鷹市や武蔵野市では工場新設の認可は難しく、小平町であったから許可することができたと挨拶のなかで述べた。こうしてのちに東洋一と賞されるブリヂストンタイヤ東京工場が、小平町に誕生したのである。
図5-20 ブリヂストンタイヤ東京工場
小平市立図書館所蔵