日立製作所トランジスタ研究所の進出

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日立製作所トランジスタ研究所は、日立製作所中央研究所(国分寺町)のトランジスタ部がトランジスタの本格的な生産に向けて、一九五七(昭和三二)年二月、小平町上水本町に約七万五九〇〇m2(約二万五〇〇〇坪、研究所分室建設用地二万坪、社宅・寮などの厚生施設用地五千坪)の用地を取得して独立したものである。翌五八年七月に本館の竣工式をおこない、八月末には中央研究所からの移動を完了した。
 当時、トランジスタラジオの目覚ましい普及によって、トランジスタは「時代の寵児(ちょうじ)」となり、その生産量は驚異的な伸びを誇った。中央研究所内にトランジスタ部ができたのは一九五六年八月だったが、それから二年足らずで量産体制が整えられた大工場を分離独立させるに至ったのである。新工場の建設用地の確保にあたり、中央研究所の近隣地は緑地地帯に指定されていて新工場建設には制約があったため、中央研究所の分室建設という名目で東京都より土地取得の認可を得た。こうした経緯から、日立製作所本社でも一旦は工場名を武蔵工場とすることを決定するも、トランジスタ研究所という名称に落ち着いた。その後、操業して一年の間に国内有数のトランジスタ生産拠点と成長した実績から東京都に改名の許可を得て、一九五九年八月に武蔵工場と改称した。

図5-22 上空からみた日立製作所トランジスタ研究所 1959年
日立製作所トランジスタ研究所『むさし』第7号

 トランジスタ研究所が取得した小平町の土地は、三七筆の畑地からなっていた。この土地が選ばれた理由は、中央研究所に隣接した土地であって連絡調整に便利であったこと、空気がきれいで良質な地下水が豊富であること、そして小平町が協力的だったことであった。