図5-26 西武バス 1955年頃
『郷土学習写真資料』No.2
一九五〇年代後半の多摩湖線の混雑状況に対して国分寺駅構内の構造が複雑だったため、複線化による運行事情の改善は難しかった。学園地区の交通の便を確保するためにも、多摩湖線を補助代替するバス系統の開設が急務となった。一九五九年三月、西武自動車は運輸大臣宛に、久米川駅―鷹の街道外―小平学園駅入口―喜平橋―武蔵小金井駅のバス運行認可を申請する。学園地区と同様に住宅地化が進む小川地区、東村山町久米川地区も加えた約一〇kmの区間を、五二人乗りバス四台を使って、一日片道三〇回から三五回の運行が計画された。
西武自動車は申請の一か月程前、予定経路の多くを占める小平町道について、その道路事情を小川睦郎町長まで問い合わせている。町長の回答は、砂利道だが路床は比較的良好で、幅員も十分な区間もある一方で、路床が悪く幅員も不十分で、バス車両待避所の設置と交差点の隅切りが必要となる区間が存在するとのことであった。一九五九年九月、西武自動車は回答を受けて鷹の街道外と小平学園駅入口の間に待避所三か所、隅切一か所を計画して、地主から土地利用の承諾を得る。予定経路の周辺住民もバス路線の開設を歓迎して協力的であった。小平町でも翌月、幅員が不十分な一部の町道を二年後までに拡張して整備する約束をした。
新系統の開設準備は着々と整えられていったが、運輸省の運行認可はなかなか下りなかった。その背景には、西武自動車をはじめとする京王帝都、立川バス、関東乗合バスといった同業者間で繰り広げられる三多摩地域のバス路線新設に向けた激しい競合関係があり、運輸省も免許授与に対し慎重な姿勢をとった。西武自動車は一九六〇年七月、運輸大臣と運輸審査会長宛に「久米川―小平学園駅―武蔵小金井駅間免許促進陳情書」を提出する。懸案の同業社との競合関係に対しては、これまで学園地区の発展に寄与してきた歴史的「実績」を切り札に優先権を主張した。結果、陳情が実って一九六一年六月に認可を得て、同年一〇月に新系統の運行がはじまる。バス路線を新規開設する際には、たとえバスの利用需要がどれだけあろうとも、道路整備や路線開設の認可事情という諸条件に対して、バス会社と行政、そして地域住民の三者の意欲と協力関係が不可欠だったのである。