三多摩地区では、区部に比べ配給が「とかく公平を欠きその上遅れ勝ち」であると、遅配と配給内容の不公平に不満の声が上がっていた(近現代編史料集③ No.三六七)。かつては農家の比重が高かった三多摩であったが、自給自足可能な農家の比重が半分にまでに減っており、労働者や俸給生活者の世帯、疎開家族や焼け出された人びとなど、配給に依存する人が敗戦後も増え続けていた。これに対して初の公選知事である安井誠一郎は「都内と都下はわけへだてしていないから、困るときは都内同様にやっていく」(近現代編史料集③ No.三七一)と述べた。
こうして配給が機能しないとき、地域のつながりが生存を支えた。前述の食糧メーデーの翌月、小平と保谷の農家の有志は、食料事情の悪化に鑑みて、主食の配給を辞退したいと町に自発的に申し出た。その分を非農家にまわそうということである。すると同様の動きが東村山、田無、久留米、清瀬へと拡がり、六か町村約三〇〇〇戸の農家が主食配給を辞退した(近現代編史料集③ No.五三三)。また翌年六月には小平の農家が「同情供出」ということでかぼちゃなどの野菜を集め、町内の非農家約二二〇〇戸(八五六四人)に分配することにした(近現代編史料集③No.五三四)。
制度からも地域からも疎外されていた朝鮮人たちにとっては、同胞とのつながりが重要であった。戦時に小平で土木建築作業に従事した朝鮮人たちは(第四章第一節3参照)、植民地支配から解放されたのちも、しばらくは茜屋橋の飯場に肩を寄せ合い住み続けていたのである。彼らのなかにはどこからかヤミ米を調達し、どぶろくをつくって生計を立てるものもいたという(「戦時中の回田新田について」)。
生存を確保するために、組織的な運動も展開された。たとえば食糧危機がもっとも深刻化した一九四六年四月頃、清瀬病院や国立武蔵療養所など各地の病院・療養所で、長期入院者・療養者たちにより患者自治会が結成された。不足する食糧を外食やヤミ市で補うことができない患者たちは、深刻な栄養不足状態にあった。病院職員による配給食糧の横領・横流しといった不正もあった。これに対する不満から患者たちが団結し、患者生活の改善要求や病院の不正追及の運動を起こしたのである。患者自治会運動は瞬く間に広がり、同年一〇月にはその連合体である東京都患者生活擁護同盟が発足、さらには全国組織である日本国立私立療養所患者同盟(日患同盟)の結成(一九四八年三月)へと患者運動の組織化が進んだ(「患者運動の存立基盤を探る」)。
小平の多摩済生院内に置かれた日患同盟東京支部は『日患東京支部ニュース』を発行していたが、紙面を見ると、患者運動は「現社会情勢からやむにやまれず興った患者解放運動」(『日患東京支部ニュース』第四号、一九四八年七月カ)といった認識であり、加えて「肺患者の一生をめちゃめちゃにしているものは結核菌でなく社会だ、即ち政治に連なって居り結核をすくってくれる政治でなければならない」(同前)といった言葉もみられる。つまりこの運動は、患者の療養生活改善を各医療施設に求めるだけでなく、政府と対峙して医療費全額国庫負担をはじめとする社会保障制度改革の要求や、民主主義的医療制度の確立などを訴えており、くらしを支える公的な仕組みをつくろうとするものであった。一方、紙面を見る限り、地域社会の人びととのつながりをつくっていこうとする動きにはならなかった。
図5-27 『日患東京支部ニュース』第4号
ゴードン・W・プランゲ文庫(雑誌及び新聞・通信) 国立国会図書館所蔵
こうしてくらしを支える仕組みが機能しなくなった時、さまざまなつながりを頼りに、生存を守るための懸命の努力が続いたのであった。