くらしの改良政策

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深刻な食糧難・生活難が続くなか、くらしを支える仕組みの再建は急務であった。しかし国民の生存を保障する能力を欠いた政府は、国民の努力や精神力に期待した。一九四七(昭和二二)年六月、政府は「敗戦日本の国民生活は、いまや崩壊の危機にひんしている」との認識から「祖国再建をめざす積極的な意欲と情熱にみちた力強く新しい精神」を養うために、新日本建設国民運動を起こすことを決定した。国民運動の目標のうち、直接「国民生活」にかかわるものとしては「合理的・民主的な生活慣習の確立」がうたわれており、「生活のむだをはぶき、ぜいたくを慎しみ、常に合理的に考え、能率的に処理する生活態度を養うとともに、封建的な風習を取り除いて、明るく快く健康な民主的生活慣習をうち立てるように衣食住の全面にわたつて国民生活に工夫と改善を行うこと」と伝統的・封建的なくらしを合理的・民主的なものへと改良することが目指された(「新日本建設国民運動要領」一九四七年六月二〇日閣議決定)。小平町は東京都から、この運動の「実践郷」に選ばれ、「生活基準を根本的に改革し悪習、悪ヘキをなくし皆働と貯金を励行」する活動を率先しておこなうこととなった(近現代編史料集③ No.五三五)。
 そのほか、この時期のくらしの改良にかかわる政策としては、一九四七年に開始された農林省の農業改良普及事業がある。これは農村の民主化を重視していたGHQの意向を受けた政策で、農業改良普及員の指導のもとで農業技術の改良を進めると同時に、生活改善普及員が合理的・効率的な家庭生活への改善を指導することになった。ここで生活改善という場合、衣食住の改良はもちろんのこと、育児や保健、家計や時間管理、さらには家族関係の民主化といった改良課題に取り組むものとされていた。これは農村家庭の民主化と女性の地位向上をはかろうとする意図をもっていたが、同時にその家庭観は性別役割分業観や私生活の重視など、アメリカの農家がモデルとなっていた(大門正克『戦争と戦後を生きる』)。
 東村山の生活改善委員会の活動について、新聞には「結婚式や葬儀の簡素化と出産、保健、衛生、栄養等の改善方法を決定、早くも実行に移し隣接町村の注目の的となっている」とあるので、小平でも同様の活動がおこなわれたものと思われるが、その「実行項目」をみると、冠婚葬祭の儀式を簡素化し、出産祝いや中元歳暮等の儀礼的な金品のやり取りをできるだけ廃止していこうとする項目がならび、保健衛生に関しては台所の衛生的な改善と各種防疫措置への参加、栄養改善にかんしては経済的栄養料理の研究と普及、そのための講習会、展示会、研究会の開催が盛り込まれていた(近現代編史料集③ No.五三六)。
 こうしたくらしの改良を目指す官製国民運動は、一九五五年に鳩山内閣の肝いりで設立された新生活運動協会による新生活運動に引き継がれた。この運動では課題として「新しい道徳運動の展開」「社会生活環境と習俗の刷新」「家庭生活の科学化合理化」「婦人及び青少年の地位向上」「生産性の向上と経済生活の安定」があげられていた。しかし三多摩の市町村では都知事から新生活運動に関する通達を受けて、その徹底をはかろうとはしているものの、「下部から盛上る熱っぽい動きがないのと、土地柄古くからの因習を打破することが出来ないせいか、本格的にこの問題と取り組む団体がまだ少い」と、早くもかけ声倒れに終わる危険性が指摘されていた(近現代編史料集③ No.七五八)。

図5-28 洗濯機を使う農家の女性 1950年代後半 『小平町誌』

 以上のように、国家は国民の生存を保障しきれなくなっていたのだが、敗戦後も戦時に引き続いてくらしのあり方へと介入し、伝統的なくらしを改良して、合理的なくらしへの再建を目指した。もちろん戦時の改良は総力戦の遂行に資するためであり、戦後復興期の改良は復興による貧困からの脱却と、社会の民主化に資するためのものであって、両者の方向性は大きく異なるが、戦時から戦後へと、伝統的なくらしの仕組みからの転換が推し進められる時期が続いたのである。ではこうしたくらしに対する国家からの介入を受け止めて、地域の人びとはくらしを支える仕組みをどのように組み替えていったのだろうか。項をあらためて掘り下げていくことにしよう。